クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2013/5/1 二期会 マクベス

2013年5月1日  二期会   東京文化会館
ヴェルディ  マクベス
指揮  アレクサンドル・ヴェデルニコフ
演出  ペーター・コンヴィチュニー
管弦楽  東京交響楽団
小森輝彦(マクベス)、板波利加(マクベス夫人)、井ノ上了吏(マクダフ)、ジョン・ハオ(バンクォー)、村上公太(マルコム)   他


 二回続けてコンヴィチュニーのハズレ演出(二期会の「サロメ」とウィーン国立歌劇場の「死者の家から」。ただし個人的な受け止め。)を見たので公演前とても心配だったが、今回は「演出面ではベリーグット!」と感じた。さすがコンヴィチュ、やっぱりコンヴィチュ。見事な名誉挽回である。

 物語を根底からひっくり返してしまう彼の演出がどうにも苦手な人も多いと思う。だが、彼は物語とスコアを徹底的に読み込み、そこから「現代においてオペラを演出する意義」を探り、問い質そうとするので、私はその姿勢を大いに評価したい。時に手法がマンネリなのと、「そこまでやっちゃうか?」みたいな過大誇大な点は依然として問題だが。

 実は、彼のインタビュー記事などを読んでしまったので、彼がこのオペラの何に着目したのかを知った上で書いている。それによると、今回のテーマは「魔女たちの復讐」なのだそうだ。

 なるほど、確かに血みどろの殺人劇はすべて魔女の企みと仕掛けによって繰り広げられているし、そうした殺人が行われるごとに、「一丁上がり」とばかりに黒板にカウントの正の字を加えていく。
 その魔女たちは主婦らしき格好の女性たち。復讐の相手は、家事を押し付け、厨房の中に押し込めようとする男性たちに対してかもしれないし、女性を低く扱おうとする男尊女卑社会に対してかもしれない。

 だが、コンヴィチュが描く魔女は、決して積年の恨みや怨念を抱いていない。「復讐」というのはややオーバーで、むしろ「鬱憤晴らし」といった感じである。とてもあっけらかんとしていて、思いを遂げることが出来れば「イヤッホー!」と歓声をあげるし、殺人を表す血の飛沫はあたかもクラッカーや花火の打ち鳴らしのごとく祝賀的だ。こうした物語の深刻な要素を思い切り皮肉り、笑い飛ばしてしまうやり方も、実はコンヴィチュニーの手法の一つである。

 コンヴィチュニーの手法の一つ、と言えばやはり言及しないわけにはいかないのが、衝撃的とも言えるラストシーン。
 マクベスを倒し、民衆の勝利の歌で輝かしく終わる大団円を、コンヴィチュニーは、厨房の中の魔女たちが耳を澄ますラジカセ音を通じて聞かせた。当然ピット内のオーケストラ伴奏も無し。生音ではなく電子音を使ったやり方に対し、大きな異論反論が噴き出るのは間違いない。
 私はというと、その事自体に文句はない。
 むしろ、このアイデアが「使い回しのもの」であることに対して、注文を付けたい。ラジカセ音を聞かせて締めくくるのは、既に「さまよえるオランダ人」の演出で実行済なのだ。コンヴィチュニーの演出はこういう使い回し手口がやたらと目立つ。

 第4幕冒頭、「虐げられた祖国」の合唱の場面はグッと胸に来た。
 「虐げられた祖国」・・・これはまさに我々日本人のことではあるまいか。原発事故によって故郷から離れることを余儀なくされた被災者。オペラを見ていて、時に身につまされ、はっと我に返ることがある。こうしたことも、現代においてオペラを観る意義なのだと思う。


 ソロ歌手の方々は非常に奮闘していたのはよく分かったが、私の場合、「ニッポンジンとして、日本国内上演のレベルからして」という観点で見て、甘やかすことはしたくない。正直、国際水準からしてやや物足りなさを感じてしまった。
 また、ヴェデルニコフ指揮の東響もそつなくまとまっていたが、特筆すべきものでもなし。

 結局、いい意味でも悪い意味でも演出が全ての公演だったと言わざるをえない。

 果たしてそれで良かったのでしょうか?? うーん・・・・。