クラシック、オペラの粋を極める!

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2011/12/30 死者の家から

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2011年12月30日  ウィーン国立歌劇場
指揮  フランツ・ウェルザー・メスト
ソリン・コリバン(アレクサンダー・ペトロヴィッチ)、ミシャ・ディディク(フィルカ・モロゾフ)、ヘルベルト・リッペルト(スクラトフ)、クリストファー・モルトマン(シシュコフ)    他
 
 
 お騒がせ演出家P・コンヴィチュニーが、このオペラを台本どおり「シベリアの流刑地での物語」に留めるわけがないことは先刻承知だった。舞台設定をどこに置くのか、また、このオペラの大半が受刑者のモノローグであるわけだが、この独白シーンで受刑囚をどのように動かしていくか、コンヴィチュニーの演出には大いに注目した。「なるほどそうきたか。さすがコンヴィチュ、目の付け所が違うわい。」というようなあっと驚く展開と解釈を期待した。
 
 その期待は裏切られた。案の定、というか・・・。
 
 舞台はどこかのサロン。受刑者はパーティ参加者に置き換わっており、正装をしている。表向き上は高級サロンっぽいが、集っている人の怪しい雰囲気や、粗野な仕草からして、さながら裏で悪に手を染めるマフィア連中の集いってところだろう。
 もう、この時点で、何となく嫌な予感がした。その予感は的中する。
 
 ここから、ありとあらゆるお下劣な品行の数々が繰り広げられる。
 飲酒、暴力、リンチ、殺人、乱痴気騒ぎ、麻薬・・・。
 第一幕では、舞台上から飛び出した男性(スクラトフ)が、平土間客席内に侵入して大騒ぎし暴れまくる。観ていたお客さん(もちろんあらかじめ仕組まれたサクラの俳優)が大声で怒り出し、「ふざけるな-!」と叫びながら退出していく。
 第二幕では、劇中劇の場面があって、女性のストリップ、ホモ系男性の卑猥な踊り・・・。
 
 私はこれらの目を覆わんばかりの展開にホトホトがっかりした。
 
 はっきり言っておくが、こうした低俗行為そのものに嫌気がさしてがっかりしたわけではない。「オペラの夢のような美しい舞台に、こうした汚いシーンを採り入れるとはいったい何事か?」などと憤慨するつもりはさらさらない。むしろ、刺激的な現代演出は私はいつもウェルカムである。
 そもそもコンヴィチュは確信犯なので、こういうことをわざとやるのであり、予め反発を想定していて、その反発が大きいほど「してやったり」とほくそ笑むのだ。そんな彼の術中にハマってはいけない。
 
 私が大いに落胆したのは、これらの手法がコンヴィチュ演出のいわば代名詞のようになっていて、既に何度も使い回されており、全く新鮮さがなく、「またかよ!?」と呆れてしまったことだ。もはや、マンネリと言っていい。
 
あのね、コンヴィチュさんよ。
乱痴気騒ぎの舞台を作るの、これで何回目??
あなたができることってこれしかないの?
結局このやり方でしか解決策を見つけられないの?
それとも、アイデアの枯渇か?もう限界か?
 
 かつてコンヴィチュニーは、「世界最高の演出家」として、その名を馳せた時期があった。毎年のように、ドイツの権威あるオペラ誌から「今年の演出家」No.1に選出されていた。斬新で、目からウロコのような読み替え演出。私も、彼が製作した数々の舞台を見て、何度も刺激を受け、知的好奇心をくすぐられたものだ。好きな演出家のひとりでもあったのだ。
 
 時代の趨勢と言おうか、このところ、世界で高く評価されている屈指の演出家としてカウントされなくなっている。
 今回の舞台を見て、それも当然というか、「ああ、彼も終わったな」と思った。
 
 
 辟易の舞台とは一線を画し、ピットから沸き立つヤナーチェクの音楽は、信じられないほど美しい。音楽監督F・W・メスト率いるウィーン国立歌劇場管弦楽団の鳥肌が立つほど素晴らしい演奏。粒だったきめ細やかな音の数々。きらめく音の洪水。精緻にして鮮やか。冴えに冴え渡るメストのタクト。強烈な推進力。この演奏を聴けただけで、十分元がとれた。演出のつまらなさを補って、かつお釣りが来た。
 
 コンサートマスターはライナー・ホーネック。お昼のニューイヤープレコンサートに続いての連チャン出演だった。
(ちなみにアシスタントコンマスは、昼はシュトイデ、夜はダナイローヴァでした。)
 
 歌手の中では、演出によってところ狭しと派手に暴れまくったスクラトフのリッペルトがやんやの喝采を受けていた。さぞや大変だったことでしょう。お疲れさま。