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2012/3/18 ワルキューレ

2012年3月18日  バイエルン州立歌劇場
演出  アンドレアス・クリーゲンブルグ
クラウス・フローリアン・フォークト(ジークムント)、アイン・アンガー(フンディング)、トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォータン)、ソフィー・コッホ(フリッカ)、アニヤ・カンペ(ジークリンデ)、カタリーナ・ダライマン(ブリュンヒルデ)   他
 
 
 世界のあちこちで指環は上演されるが、その中でもここミュンヘンは、ドイツ語圏最高峰の伝統と格式を持つ劇場であり、なおかつワーグナーとのゆかりがあることもあって、特別と言わざるを得ない。
 そのミュンヘンの新リングがいよいよ始まった。「世界の注目」である。
 
 ワルキューレに先立ち、先月、序夜「ラインの黄金」がプレミエ上演されたが、公演の写真や映像を見たところ、主要人物以外に大勢の人間を舞台に登場させ、物語の背景や、ポイントとなる場面の設定を人間によって形づくるという大変興味深い手法を採用していた。
 
 今回のワルキューレにおいても、その方式が一部、継続して採り入れられている。
 例えば、第一幕では、脚本上はジークムントとジークリンデとフンディングの3人しか登場しないが、舞台には多くの若い女性が登場し、後ろで成り行きを見守りつつ、必要時には物語の進行の橋渡しをしたりする。手のひらに明かりが灯るようなライトを持っていて、ノートゥンク(剣)の在りかを指し示したり、ジークムントとジークリンデの愛の交換を照らしたりするなどの重要な任務も負っている。彼女たちは、あたかも、目には見えないが社会の隙間に棲息する妖精たちのようだった。
 
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 また、第二幕では、ヴォータンとフリッカそれぞれに、数名の使用人が控えていて、彼ら自身が椅子になったりテーブルになったりしながら主役を下支えしている。
 
 彼らはいったい何者なのであろうか。
 ある時は小道具となり、ある時は背景や装置となり、ある時は劇の進行上重要なキーワードそのものであり、きっかけそのものを担う‘人たち’の扱いが、クリーゲンブルグ演出の最大のポイントであろう。
 
 ここで思い出されるのが、2009年11月に新国立劇場で上演されたアルバン・ベルクの「ヴォツェック」だ。同じクリーゲンブルグの演出で、バイエルン州立歌劇場との共同プロダクションである。
 このヴォツェックでは、床に水を張り、地底牢あるいは井戸の底のようなじめじめした場所を作って、そこに普通の社会生活から脱落してしまった最下層の‘人たち’を這いつくばらせていた。
 ここで登場した‘人たち’というのは、まさに「貧困」という社会現象そのものを表しており、これこそが物語の背景であり、根幹であると示した。
 
 今回の指環についても、演出家のアプローチは同様であろう。つまり、神話と現代をつなぐ橋渡し役を人間に担わせ、人が劇の進行を語り、人の社会を物語の背景に据える。セリフがある主役たちは、思考し行動する単体であり、一方で、‘人たち’は創造物として「物」の代わりを務めたり、群衆として「社会そのもの」を務めながら、物語のバックグラウンドを形成しているのである。
 ワーグナーが音楽においてライトモチーフを用いたように、今回の演出で人間をライトモチーフとして使っていると捉えることも可能だ。
 
 ・・と、ここまでなら、巧みに考え尽くされたクリエイティブな演出として、賞賛される舞台になるはずだったが、一箇所だけ、観客のほぼ全員を呆れさせ、イライラさせる事があった。
 
 第3幕冒頭、有名なワルキューレの騎行の場面で、幕が開き音楽がはじめる前に、第一幕に登場した妖精のような若い女性たちが、モダンダンスを踊ったのだ。
 
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 まずかったのは、この踊っている時間があまりにも冗長で、かつワンパターン的な動きだったこと。いったい何分くらい続いただろう、5分くらいだっただろうか・・・。最初のうちは興味津々で眺めていた聴衆も、延々と繰り返されるダンスに辟易してくる。「わかったよ、もういいよ、はよ終われよ」と焦れてくる。やがて「はいオシマイ、いい加減にしろ!」とばかりに嘲りの拍手や口笛、さらには罵声が飛ぶ。
 
 このダンスにしたって、演出家による何らかの意図があったことは明白なのだが、いかんせん長すぎて、完全に逆効果だったと思う。今後、再演が繰り返させるにあたっては、この場面の取扱いをどうするかが問題になるであろう。
 
 
 出演した歌手は、超大物はいないが、まさに今が旬の歌手ばかりである。
 最大の注目はやはりK・F・フォークトであろうか。このところの彼の八面六臂の活躍は目を見張るものがある。だが、大変残念なことに、私個人として、彼の声はどうも甘すぎて好みではない。まあ、ある意味、ヘルデンテノールの既成概念を変えたと言ってもいいので、オリジナリティを持つテノールとしての存在感は非常にデカイと思う。
 個人的に好みでないと書いただけで、決して彼の出来が悪かったということではなく、貫禄と安定感は抜群で、歌手の中では一番喝采を浴びていた。その人気は絶大で、ドイツでは完全にブレイクしているといった感じだ。
 
 その他のソリスト一人一人についてコメントを述べていくと、更に長くなってしまうので、省略。
 
 音楽面で、今回最大の成功を収めたのは指揮者ケント・ナガノだ。
 彼がコントロールした音楽は真に芸術的で、感動的だった。心の底から絶賛させていただきたい。なにが素晴らしいって、大味な箇所、ダレた箇所が一つもないこと。これほどまでに一音一音にこだわりがあり、キレがあるワーグナーを私は今まで聞いたことがない。「音楽が語る」というのは、まさにこういうことだと思い知った。
 
 
 それにしても、歌手も含めて、音楽面に対する聴衆の熱い喝采はびっくりするくらいすごかった。カーテンコールではドンドンと足踏みが鳴らされ、会場は興奮の坩堝に陥った。比較的手厳しいと言われるミュンヘンの聴衆がこれだけ熱狂するのを見たのは、私がこれまで何十回と聴いてきた体験の中で、屈指である。大げさではなく「事件」と言ってもいい。ひょっとして、ケント・ナガノ音楽監督就任以来最大級の成功ではないだろうか。まさに、「してやったり、ナガノ」であった。