クラシック、オペラの粋を極める!

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2013/9/6 新日本フィル

ワーグナー  楽劇ワルキューレより第1幕(コンサート形式上演)
ミヒャエラ・カウネ(ジークリンデ)、ヴィル・ハルトマン(ジークムント)、リアン・リー(フンディング)
 
 
Conductor in Residenceの肩書で新たに指揮者陣に迎え入れたメッツマッハーにより、新日本フィルの13-14新シーズンが開幕した。
 
「挨拶代わりの一発」を華々しく打ち上げるかと思いきや、強烈な肩透かしとともに。
 
 メッツマッハーはドイツ人だ。ドイツ人指揮者によるドイツ物のプログラムなのだ。否が応でも重厚な演奏を期待してしまうではないか。
 
メッツマッハーはそれを軽くあしらった。既存のイメージは見事に払拭されていた。
実にさっぱりとした、さばさばとした演奏なのだ。
力は十分にこもっている。エネルギッシュかつダイナミックでありながら、それでいて軽い。
 
 考えてみれば、これまで聞いてきたメッツマッハーは大概そういう演奏だった。交響曲もオペラも、ブルックナーワーグナーマーラーも。それこそ「奇才」と言われる所以だろう。
 
 彼はあえて既存のイメージの否定から入る指揮者なのだろうか。
 そうではない。演出家コンヴィチュニーのような作為的な意図は感じられない。「こうすると思うでしょ?こうするのが当然だと思うでしょ? でもオレっち天邪鬼だからそうしないもんね」みたいな、そういうわざとらしさではない。
 
 それはメッツマッハーの、「楽譜を綿密に読み取った結果、どう考えても‘こう’としかありえない。」という独自の視点に基づくものだ。
 それが証拠に、彼のタクトは自信に満ち溢れているし、オーケストラの鳴りも迷いがない。ただ単に、目の付けどころが違うだけ。
 
 メッツマッハーは現代音楽や新作物に強いと言われている。それは、まっさらな状態から楽譜を読み取る才能に長けているからだと思う。だから既存のイメージを簡単に打破できてしまうわけだ。
 
 
 それでもやはり今回の公演、特にワーグナーにおいて私自身は「肩透かしを食らった」と感じた。もちろんそれは、私が「ワーグナーは是非このように演奏してほしい」と勝手に期待したからに他ならない。多分に個人的な好みによるものだ。それを承知であえて言うが、物足りなかった。
 
 物足りなかった要因はメッツマッハーの肩透かしによるものだけでなく、歌手もそうだった。
 特にジークムントを歌ったハルトマンは、イライラさえ感じた。
 
 カウネとハルトマンは、今年11月、ジュネーブ大劇場で上演されるワルキューレでも共に歌うことになっている。「本当にこれでいいのか?」と思ってしまうが、まあ大きなお世話ってもんだろう。
 
 だってその公演の指揮者はメッツマッハーなのだから。
 
 今回の公演にしても、メッツマッハーが歌手の力量をしっかりと認めた上で、さらに練習を積んで仕立てた結果である。
 要するに、歌手も含めて「メッツマッハーの音楽」だったということなのだ。