指揮 リッカルド・ムーティ
今回の記事では、3回の公演を通してのシカゴ響の演奏スタイルに主にスポットを当てて書いてみたい。
言うまでもなく、シカゴ響は世界有数のオーケストラである。
同時に、かつても、そして今現在もアメリカのトップ・オーケストラである。
このことについて異論を挿む人は少ないだろう。
私もショルティ&シカゴ響のコンサートに2回行ったが、いやはや化け物オーケストラだと思った。とにかく上手くて、音がデカくて、ゴージャス。
その演奏から、「わりいけど、俺たちシカゴ響だぜ!?」みたいな強烈なプライドと、鼻につくような自慢が聞こえた気がした。
ところが、実力的には本来申し分ないはずの名指揮者バレンボイム、ハイティンク時代に、なぜかランキングが降下。なんとなくロンドン響あたりと並ぶ6位くらいの位置に収まってしまった。(特定のリサーチ結果ではなく、あくまでも一般総合的な風評)
こうした中、再び絶頂期を取り戻したいオーケストラ側が三顧の礼をもって迎えたのが、世界屈指の人気と実力を誇り、名実ともに巨匠の仲間入りを果たそうとしていた皇帝リッカルド・ムーティである。
実はこの時、ムーティもまた、歌劇場と決別し、演出が出しゃばるオペラ界の情勢を悲観する中、自らの実力を誇示できる世界トップ級オーケストラからの誘いを、絶好の機会と捉えた。タイミングと双方の思惑が一致した瞬間だった。
今、こうしてムーティが統率する名門オケの音を聴いて、「シカゴ響、変化しているな」と感じる。
上手いのは相変わらずだ。
ただし、「Super」ではなくなっている。
で、「別にスーパーである必要もない。音楽はただ上手ければいいってもんじゃない。」みたいな余裕、ゆとりが、演奏から感じられる。
したがって、かつてのような強烈なプライド、鼻につくような自慢も、聞こえなくなった。
音量はあるが、威圧感は影を潜め、キラキラ感、ギラギラ感も随分と減った。その分、洗練さが増し、密度が増した。懐が広くなって、作曲家や作品などの種類によって幅広く対応できる機能性が増した。
そうした変化の理由について、「メンバーが入れ替わり、手先が器用なアジア系奏者が増えたから」とみる一部の意見を耳にすることがあるが、私自身は分からない。
今回の3つのプログラム。
ドイツ物、イタリア物、ロシア物という異なる系統の作品を並べ、それぞれに異なる表情を魅せた。
陸上10種競技王者のような貫禄。こうした総合力こそが、現在のシカゴ響の持ち味であり、強みなのではないか、と私は思った。