クラシック、オペラの粋を極める!

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2019/1/12 ばらの騎士

2019年1月12日   ライプツィヒ歌劇場
指揮  ウルフ・シルマー
演出  アルフレート・キルヒナー
カトリン・ゲーリング(マルシャリン)、カール・ハインツ・レーナー(オックス)、ワリス・ジュンタ(オクタヴィアン)、オレーナ・トカール(ゾフィー)、マティアス・ハウスマン(ファニナール)   他
 
 
キルヒナーと言えば、バイロイトで1994年から5年間上演された「ニーベリングの指環」の演出を手がけ、一躍名を馳せた。評判はイマイチだったようだが、写真で見る限り舞台のデザインは斬新的で、いかにも革新的な舞台が話題を呼ぶバイロイトらしい、強烈な視覚インパクトをもたらしたものだった。(実際の舞台は、もちろん観ていない。)
 
私の場合、キルヒナーの先端的イメージは、未だにこのリングの影響による。
その印象は、今から考えれば実はキルヒナーというより舞台デザイナー兼衣装デザイナーのロザリエの功績によるものだったかもしれない。それでも、キルヒナー=斬新的という図式はしっかりと植え付けられたままだ。
 
ところが、私はこれまで彼の演出のオペラを過去に2度観ている(今回が3回目)が、いずれも先端的とはほど遠い、凡庸な演出だった。
今回のばらの騎士もまったく同様。
オーソドックス、伝統的と言えば聞こえがいいかもしれないが、これほど保守的で、旧態依然、古色蒼然とした舞台は、今どきのドイツでは相当珍しい。倉庫の奥からホコリにまみれていた物を引っ張り出してきたような古臭さ。開いた口が塞がらないという感じだった。
 
もちろん、伝統的演出というのは、それだけ音楽に集中することができるというメリットも生じるわけで、必ずしも否定するものでもない。
それでも、私の場合、新たな視点による新たな可能性をもたらす舞台というのを常に期待しているので、それがまったく感じられないのはいささか寂しいことだった。
 
ドイツ人にとってはどうなのだろう。
今や、どこの劇場でも、現代演出、読替演出ばかり。
お客さんであるあなた達は、それを望んでいるのか、それとも望んでいないのか?
演出家の強烈な主張の読み解きに疲れてしまい、「たまには、オーソドックスな舞台で、純粋に音楽を聞かせてくれよ。」と思う気持ちがあるのか、それともないのか?
 
ドイツ人が何を望み、何を嗜好しているのかは分からない。
が、この日、チケットの売れ行きは上々で、会場はかなり埋まっていた。
もしかしたら、これが一つの答えなのかもしれない。
 
さて、演出の解釈に思いを巡らす必要がないとなると、俄然注目をせざるを得ないのが、シルマーのタクトによる音楽だ。
おそらくシルマーは、この名作をドイツ国内、海外を含め、何十回と振っているのだろう。
故に、音楽はスキがなく、とても完成され、美しい説得力、幸福な支配力に満ちていた。
 
決して乱れず、安定していて、破綻しない調和。
 
でも・・なんだろう、ばらの騎士って、それでいいのだろうか。
一瞬にして壊れてしまう夢の儚さ。刹那的とも言えるメランコリー。
それがこのオペラに潜むテーマであり、魅力なのではないか。
こうして安心と調和がすべてを充足している音楽を本当に手放しで喜んでいいのかどうかは、正直よく分からない。
 
第三幕の大団円で、マルシャリンがゾフィーとオクタヴィアンの二人から毅然と立ち去りつつ、「これで良かったのだわ・・」と漏らす時、シルマーの音楽はなんだか「そうなんです! これでいいんです!」とバンザイしているみたいだった。
 
演奏の完成度は高いのに、物語がきちんと完結しているというのに、私は残念ながら物足りない気持ちでいっぱいだった。
 
いや、この物足りなさを指揮者シルマーのせいにするのはやめよう。
新味のない演出、それとイマイチな自分の体調。
これらが鑑賞の刺激を奪ってしまったのだ。きっとそうに違いない。