2017年7月23日 ムジカ・エテルナ フェルゼンライトシューレ
指揮 テオドール・クルレンツィス
合唱 ムジカ・エテルナ・ペルミ歌劇場合唱団
モーツァルト レクイエム
噂は本物だった。「奇跡の」という形容は、紛れもない真実だった。クルレンツィスのモツ・レク、既存の概念を覆す前代未聞の演奏だった。
大げさかもしれないが、確信をもって言ってしまおう。
この演奏はクラシック史における「事件」である。
テオドール・クルレンツィス。彼のことを好意的に「天才」と言っても構わないし、反意的に「異端」と言っても構わないが、いずれにしても常識や慣習といった枠を突き破る革命児である。(どうやら本人自身にはその意識がないようだが。)
私はというと、死んだモーツァルトがクルレンツィスに乗り移ってきたのではないかと思った。畏れというか、怖ささえ感じた。死者を弔う音楽の為せる業だったかもしれないが、とにかく神憑りだった。
まず、会場に入ると、ステージには演奏者用の椅子がわずかしか置いていない。
ムジカ・エテルナは、立って演奏したのだ!
もちろん、すべて指揮者クルレンツィスの意図だ。
きっとこう指示しているのだろう。「表現せよ。精神を開放せよ。音を解き放て。」と。
それぞれの演奏者に自由を与えているようでいながら、各パート、各楽器一つ一つのフレーズにおける奏法、アーティキュレーションは、「そこまで整えられるのか!?」と驚嘆するくらいに揃っている。全員が、音楽の方向性において同じ所を見つめている。ムジカ・エテルナは、クルレンツィスと完全同化しているのだ。
ここまで徹底させるのに、いったいどれくらいの仕込みが必要なのだろう。
一見、気の遠くなるような緻密なリハの成果のようでありながら、実際はクルレンツィスの魔術のタクトで、一瞬にして創り上げてしまったのではないかとも勘ぐってしまう。
響きは斬新かつ異彩で、型破り。今まで耳にしたことがないフレーズ(楽譜には書いてあったが埋没していたもの)が浮かび上がり、慣れ親しんでいるはずの旋律が化学反応を起こす。やがてそれらは変容し、沸騰し、昇華しだす。
いったい、何をどうやったらこういうエキセントリックな音楽になるのだろうか?
神秘の時間が終わった。
モツ・レク一曲のみ。公演としては異例の短さであり、あっという間だったような気もするが、時間の経過の感覚が、ない。
最後の音が鳴った後、会場は静寂が支配した。
「拍手はタクトが下ろされてから」なんていう生易しいマナーのおかげではない。金縛りにあっていた聴衆が現実に引き戻されるまでに時間がかかったのだ。
やがて割れんばかりの拍手とブラヴォーが起こると、聴衆はザザァーっと立ち上がった。一斉に、だ。総立ちによるカーテンコールはなかなか止むことがなかった・・・。