指揮 ミルガ・グラジニーテ・ティーラ
ブルックナー ミサ曲第2番
モーツァルト アヴェ・ヴェルム・コルプス
モーツァルテウム音楽院大ホールでの公演を聴くのは、かなり久しぶり。美しい内装のホールだが、中に入っての感想は「あれ、こんなに小さなホールだったっけ?」であった。
この日の公演、フェスティバルとしての位置づけ、タイトルは「モーツァルト・マチネー」。しかし、実際のプログラムは合唱付きの教会音楽がメインで、2分程度のモーツァルト作品は単なる添え物というのがミソ。(スターバト・マーテル演奏の後、間を取らずに続けて演奏された。)
そういえば今年のザルツブルク音楽祭、本来モーツァルトが主軸のフェストであるにもかかわらず、オペラにしても「皇帝ティートの慈悲」しかやらない。主軸にこだわらず、「クラシック界最高の見世物、興行」と居直っているところが潔くていい。
さて。注目のミルガ・グラジニーテ・ティーラである。
皆さん、彼女のこと、ご存知か?
あたしゃ1年くらい前まで、つまり今年の音楽祭概要が発表になった時点では、まったく知りませんでしたよ。どこの国の人なのかも、男なのか女なのかも、そもそも表記の読み方も。
そんな彼女の指揮ぶりの感想を書こう。
腕の動きだけでなく、体全体、表情、すべてを使って音楽を表現している。指揮棒を持たないタクトは、微に入り細を穿つほどによく動く。指揮者の解釈と音楽表現の情報は、すべてタクトに込められ、すべてタクトで明らかにされている。
まるで「私のタクトは、どのように演奏したらいいか、すべてを明示しています。タクトのとおり演奏してくれれば、それでいいのです。」と言っているかのようだ。
なるほど、さすがだと思った。
と同時に、「若いな」とも思った。
既に名声を得ている数多の指揮者が、彼女ようにすべてを明示するタクトを振っているかと言えば、決してそうではない。
では、名指揮者たちはいったい何をどうしているか。
彼らはオーケストラから「引き出している」。到達地点を示し、演奏者の自発的な音楽表現を促しているのだ。
グラジニーテ・ティーラ女史は、そこにまだ至っていないと感じる。それはとりもなおさず「若い」ということに尽きる。
彼女の時代はこれからだ。これからもっともっと活躍していくことだろう。それに期待しよう。
巨匠への道を着々と歩むD・ハーディングを初めて見たのはザルツブルク音楽祭だった。
2001年8月。当時まだ20代半ば。小僧のように若かった。
その時、まったく同じ感想を持ったことを思い出した。