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2015/10/17 新国立 ラインの黄金

2015年10月17日  新国立劇場
ワーグナー  楽劇ニーベルングの指環より除夜「ラインの黄金
指揮  飯守泰次郎
原演出  ゲッツ・フリードリッヒ
演出補  イェレ・エルッキラ
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
ユッカ・ラッシライネン(ヴォータン)、ステファン・グールド(ローゲ)、妻屋秀和(ファーゾルト)、クリスティアン・ヒューブナー(ファフナー)、トーマス・ガゼリ(アルベリッヒ)、アンドレアス・コンラード(ミーメ)、シモーネ・シュレーダー(フリッカ)、黒田博(ドンナー)、片寄純也(フロー)、安藤赴美子(フライア)、クリスタ・マイヤー(エルダ)   他


「なんで今更G・フリードリッヒなわけ?」
という疑問は、私自身も制作発表当時は嘆いたし、多くのワグネリアンが思ったことだろう。
 限られた予算、とどのつまりは「金がない」という制約下で、「ベストが無理でもベターな選択」をしなければならない場合、どうするか。
 その選択権限を有する芸術監督が指揮者ならば、そして芸術監督自らがタクトを振ろうとするならば、下す条件はこれしかない。
「音楽を決して妨げないシンプル演出」
 つまり、この貸出プロダクションは必然だった。新国立は、制作に関して責任ある人間が音楽家なのだ。だから良いか悪いかは別として、こういうことになる。

 結果が吉と出たのか凶と出たのかは、受け取る人によって異なるだろう。斬新で先鋭的な演出が嫌いな人は「良かった」と思うかもしれないし、そういう演出が好きな人は「つまらなかった」と思うかもしれない。

 私はというと、観賞にあたって次のように考えていた。
「ああそうかい。そういうことならとことん音楽で勝負してほしい。音楽で主張をしてほしい。この上演の意義について音楽で訴え、音楽で我々を納得させてほしい。」

 で、鑑賞した後の私の感想は次のとおり。
「色々な場面で飯守氏がやってみたことは聞こえた。なるほどと思った箇所もあった。けれども、上演全体が指揮者の考える音楽に支配されていたかといえばNO。音楽で強いメッセージを受け取ったかと言えばNO。」

 飯守さんが振ったラインの黄金で思い出すのは、15年前の2000年9月。「オーケストラルオペラ」と称し、毛が生えたような中途半端な演出を伴って東京シティフィルを振った公演。申し訳ないが、心底がっかりした演奏だった。
 具体的に何がどうがっかりだったのかはもう覚えていないが、あの時に比べれば今回は遥かにワーグナーを聴いた満足感はある。だから、決して「良くなかった」わけではない。

 興味深いのは、ネットで幾人かの感想や評を見てみたが、飯守さんのタクトについて「緊張感が伴っていて弛緩せず・・」と述べていた人もいれば、「弛緩していて、ぬるい」という人もいたこと。
 弛緩するのかしないのかという点については、実は単なるテンポの問題ということもあり、結構眉唾物じゃないかと思う。ただ、それを差し引いても両極端正反対の意見が噴出すること自体、強くて筋の通った主張に乏しかったと言えるだろう。

 間違いないのは、歌手の出来に助けられた部分が大きかったこと。この上演の品質をしっかり確保してくれたのは、指揮者でも演出でもなく、歌手だった。「オペラってそういうものじゃん?」とか言われればぐうの音も出ないけどね。

 誰もが認めるとおり、ローゲのS・グールドは素晴らしかった。一部の「ローゲらしくない」という意見は、私に言わせればその人の好みか、先入観(これまでCDなどで聴いてきた刷り込み)か、もしくは歌とはまったく別の演技や体型の問題でしかない。
 彼のローゲを見ていると、この物語のカギを握っているのはローゲなのだと思えてくる。それくらいの存在感があった。
 その他の外国人キャストは固くて盤石、日本人キャストは健闘。歌手に安定感があると、本当にストレートに舞台に集中できるのが良い。

 さて、フリードリッヒが施した演出であるが、一貫性のある主義主張はほとんど見られない。舞台がシンプルだからといって何もしていないわけではなく、実際仕掛けがあって、細かい所で「おっ!?」と思うことはあるが、やや中途半端な印象を受ける。
(アルベリッヒの指環を奪う際に、槍で手首ごと切断するというアイデアは結構面白かった。トカゲみたいに切れた手首がピクピク動いたり、後で手首が生えてきたりしたら、最高に面白かったけどな(笑))

 なにはともあれ、これ1作品だけで判断せず、長い目で、大きなくくりで、楽しみにしていこうと思う。
 彼は有名なベルリン・ドイツ・オペラのトンネルリングで、「始まりは終わりであり、終わりは始まりである」という明確なコンセプトを打ち出した。このプロダクションだって、きっと何かあるはず。四部作を通じてそれが詳らかになるのではないか、という期待を引き続き保っていきたい。

 そもそも指環ってそういう楽しみが出来る作品だよね。

 それに「四部作を通じて」には、名歌手グールドの全演目出演の期待も含まれる。更には、今回はそれほど強くなかった飯守さんの音楽的主張だって見出だせるかも。なんたって、このリングが飯守氏の指揮者人生の集大成かもしれないのだから。