五輪エンブレムのパクリ疑惑問題は、今もなお日本全国を賑わせている。今の世の中、データや情報はだれでも簡単に検索でき、そして瞬時に広まる。便利でありながら、なおかつ恐ろしい時代になったものである。
もちろん、パクリや盗作はけしからんことだ。アイデアというのはそれ自体が決定力を持つ。だからこそそれを産み出すための努力と試練はリスペクトされなければならないし、産み出された物には一定の価値を付与しなければならないのである。
だが一方で、こんな疑問も湧く。
それは、オリジナルから影響を受け、アイデアの一部はちゃっかりいただきつつも、それを自分なりに発展させた物というのは、果たしてパクリなのか、けしからん事なのかということだ。
というのは、音楽にしても美術にしても、芸術にはそうした作品が溢れかえっているからだ。
例えばショスタコーヴィチ交響曲第15番なんか、堂々とロッシーニのウィリアム・テル序曲などの有名な旋律が流れてくる。一般的にパロディやオマージュという言い方でパクリとは別物扱いされているが、もしこれが現代だったら「おい、ちょっと待て。勝手に引用するとは何事か?」となってしまうのではないか。昔のは「名匠による芸術作品だからオッケー」で、現代においては「似ている」→「パクリじゃないか」→「けしからん」というのは、少々理不尽のような気がする。
パロディやオマージュまではいかなくても、クラシック音楽には明らかに「影響を受けた」と思しき作品が数知れず。先日、都響のコンサートでドヴォルザークの交響曲第4番を聴いたのだが、ワーグナーやベートーヴェンの影響を受けたかのような部分がはっきり聞き取れた。芸術面においては、むしろ「いかに影響を受けたか」が音楽の進化や発展に貢献しているのではないかとさえ思える。
今回の騒動に関してだが、アイデアの根源やコンセプトを明確にし、それらが自身のオリジナリティやキャラクターの中でどう消化され発展していったのか、そうした過程を最初からはっきり説明していれば、これほどの問題にならなかったかもしれない。渦中の人たちはデザインに込められたコンセプトをもっともっと主張すべきだったと思う。もし「パクリじゃない」と全力で否定するのならば。
もっとも「いや、全力で主張したよ。でもまったく聞き入れられなかった。」ということなのかも。大衆マインドとマスコミ操作というのは、それほど恐ろしく、強力で手に負えないものだから・・。