クラシック、オペラの粋を極める!

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歌劇場の音楽監督

「フランツ・ウェルザー・メストがウィーン国立歌劇場音楽監督を電撃辞任!」というニュースは、なかなか衝撃的だった。就任から4年、その間の芸術的成果については内外から一定の評価を得ていたと思うし、集客営業的にも堅調だったはずだ。待望のオーストリア人監督だったわけだし、そういう意味ではてっきり長期政権になるものとばかり思っていた。なので正直びっくりである。
 
 芸術の場合、スポーツのような勝敗結果が存在しない。「負けが続いたので監督クビもしくは辞任」ということがないのだから、普通なら契約任期を全うできる。
 にもかかわらず途中で破局が起こるのは、劇場の総裁と音楽監督の間に考え方の相違が生じるパターンか、どちらかがもう一方の領分に口を挟んでくるパターンかのどちらかだろう。今回もそうしたことが原因であることは容易に想像がつく。
 ましてやウィーンのような世界トップの劇場ともなれば、総裁、音楽監督ともに実力も、影響力も、そしてプライドもハンパなくあるから、そう簡単には引き下がれない事情があるに違いない。きっと音楽ファンの想像を絶するような複雑なしがらみや権力争い、駆け引きを抱える劇場なのだ。伏魔殿と言われるだけのことはある。
 
 さて、今回の件がきっかけでふと思い浮かんだことがある。それは「音楽監督が芸術的な発展向上に寄与する実質的影響力っていったいどれくらいなのだろう?」ということ。
 小さい団体ならいざ知らず、一流と呼ばれる団体では音楽監督が担当する公演なんて半分にも満たないところが多い。いや、半分どころかほんの一部なんて場合もある。それでも音楽監督は芸術面の水準確保に責任も持つことになっている。一応は。
 だが、そんな中でいったいどれだけ責任を果たせるというのだろう。
 
 そもそも、だ。劇場からしてみれば‘実’よりも‘顔’が欲しいということもあるだろうし、指揮者にしたって立派な肩書や華々しい経歴が欲しい。両者ともに「箔を付けたい」という本音が見え見えだ。
 
 考えてみれば、監督と言っておきながら実際には全公演のうちの一部しか担わないというクラシック音楽界の常識は、他の分野からするとずいぶんと異質であり不思議だ。
 スポーツの世界では、試合によってベンチで指揮する監督をコロコロ変えるなんてことはあり得ない。相手チームの状況、諸々の条件、戦術等によって、それに長けた監督をその都度起用するというのは、個人的には何となくアリのような気がしないでもないが、現実には絶対にない。そんなことをしたら大混乱は必至だし、ファンも選手も納得しないだろう。
 
 でもクラシック音楽界ではそれが当然のごとくまかり通っている。同じ尺度で測れないまったくの別物と言ってしまえばそれまでだが、興味深い事象であることは間違いない。
 
 
 ウィーン国立歌劇場の話に戻すと、はたして後任はいったい誰になるのだろう?
 
 なんとなくガッティのような気がするが・・・いや待てよルイージか・・ウィーンっ子の希望はティーレマンかもしれないが・・まさかラトル!?
 
 などと思いを巡らすのは楽しい。一流指揮者はたいてい既にどこかのポストに収まっているので、一気に玉突きが発生する可能性もある。そうなったらそうなったでこれまた楽しい。
 
 トップの人事は、すべての人にとって最大の関心事。芸術もスポーツも、政治も会社も、みな同じ。これだけは万国共通、絶対の真理と言えそうだ。