2014年12月31日 チューリッヒ歌劇場
指揮 ジャンカルロ・アンドレッタ
演出 チェーザレ・リエヴィ
チェチーリア・バルトリ(アンジェリーナ)、ローレンス・ブラウンリー(ドン・ラミロ)、オリヴァー・ヴィドマー(ダンディーニ)、カルロス・ショーソン(ドン・マニフィコ)、シェン・ヤン(アリードロ)、マルティナ・ヤンコーヴァ(クロリンダ)、リリアーナ・ニキテアヌ(ティスベ)
ここにスペシャルな歌手がキャストに名を連ねた。現代最高の歌手として誉れ高い「チェチーリア・バルトリ」姐御である。
彼女が出演するからこそ「ガラ」に相応しく、華やかで輝いた公演になる。彼女の歌が聴けるのなら、少しくらい値段が張っても構わない。一年を締めくくるのにこれほど最適な歌手は、そうはいない。
(別にバルトリ様は大晦日だけに出演するわけではなく、チクルスの他日にも登場するのだが、ここはひとつ「ガラ公演に華を添えるために特別に出演した」ということにさせてほしい。チケット代、高かったので(笑)。)
演出はスタンダードかつオーソドックスなものだった。
ならば「このオペラの核心は何なのか」とか「演出家は何を訴えたかったのか」などと頭を巡らす必要はない。純粋に音楽を楽しみ、歌手、とりわけバルトリの歌声に心を踊らせればよい。
ということで、彼女のアンジェリーナであるが・・・
いやぁー、すんごい! さ・す・が!
いったいなんという歌手だろうか。思わず唸ってしまった。
バルトリの歌は、歌唱という手段を超越した人間の感情そのものである。もっと言うと真心の美しさそのものである。
息を吸って声を発し、意識によって音階を作って歌にするというのではなく、あたかも彼女の身体から音楽の泉が滾々と湧き出るかのようだ。「歌う」という作為的な動作ではなく、ひたすらナチュラルな営みなのである。
嬉しければ自然と笑みがこぼれ、悲しければ自然と表情が曇るように。心と表情と声がすべてつながり、連動した人間のストレートな感情と言ってもいい。彼女が「嬉しい!」と歌えば、聴いている人は皆表情が明るくなる。彼女が「悲しい」と歌えば、聴いている人は皆もらい泣きする。
もう少し技術的観点で言うと、いわゆる音感(音符を捉える力)に天性のものを感じる。おそらくものすごく耳がいいんだと思う。それに加えてバロック音楽の豊富な経験によって、音楽の基礎が叩きこまれたのだろう。
更に、音符と言葉の融合、つまり言葉を音に乗せていく能力が非常に高い。なので、高音から低音まで、ゆっくりから早いまで、とにかくパッセージが伸縮自在、自由自在。信じられないほど完璧である。恐ろしく難しいパッセージなのに、それを難しいと全く感じさせないところがすごい。アジリタの超絶的な動かし方はもはや人間技とは思えず、聞いていて目が回りそうだ。
な~るほど・・・。
人間の歌唱はここまで進化するのか。グルベローヴァ、フローレスなど、まさに一握りの人間しか到達し得ない孤高の存在。彼女が「伝説のディーヴァの域に達している」と評される理由がよーく分かった。参った。参りました。
と、このように書くと、この日の公演が完全にバルトリの独り舞台のように見えるが、実はそうでもなかった。なぜなら、他のキャスト陣も大健闘だったからだ。
メトでも同役を歌うドン・ラミロのブラウンリーも文句なく良かったが、舞台をガッチリと支えていたのは、道化役であるショーソン、ニキテアヌ、ヤンコーヴァの三人。
実はこうしたオペラ・ブッファでは、彼らのようなコミカル役こそが重要だったりする。オペラの引立て役であり、盛り上げ役であり、陰の主役。彼らが大真面目に、仰々しくオーバーに演じれば演じるほど、物語がどんどんと面白みを増していく。
チューリッヒは世界を股にかけて活躍する一流歌手も多数招聘されるが、一方で優秀な専属歌手に恵まれている。彼らがいるからレパートリーシステムが成り立つ。
お客さんも皆そのことを知っている。カーテンコールではバルトリ、ブラウンリーに対して爆発的な喝采が起こっていたが、それ以外の歌手たちにも負けず劣らずの暖かい拍手が送られていたのは、本当に素晴らしいと思った。
終演となり照明が灯っても、お客さんたちは直ちに帰ろうとしない。劇場が無料でグラスシャンパンを配るサービスを始めたから。ガラらしく、ロビーで即席の社交の世界が広がった。
私も「タダでいただけるのなら」と遠慮なくガブ飲み(笑)。ビールじゃねえっての。
素敵な夜。良い年を迎えられそうだ。