2014年1月2日 バイエルン州立歌劇場
指揮 アッシャー・フィッシュ
演出 マルティン・クシェイ
アニヤ・ハルテロス(レオノーラ)、ルドヴィク・テジエ(ドン・カルロ)、ゾラン・トドロヴィッチ(ドン・アルヴァーロ)、ナディア・クラステヴァ(プレツィオシッラ)、ヴィタリー・コヴァリョフ(カラトラーヴァ伯爵/グァルディアーノ神父) 他
オペラを観るためにヨーロッパの諸都市を巡り、最後にウィーンやパリ、ミュンヘンといった大都市の一流劇場に到達すると、これまで回って観てきた物とはスケールの差が如実に表れて、改めて驚くことがしばしばある。舞台空間やオケピットの広さといったハード面もそうだが、やはり歌手やオーケストラの実力、装置の豪華さ、照明の美しさなどを目の当たりにすると、「やっぱり段違いだな」とため息が出てしまう。
そうした差を生む決定的な要素、それはなんだかんだ言っても「資金力」である。やれ伝統だ格式だとか言うが、最高のキャストを揃えた上質プロダクションの制作を可能にする強固な財政基盤、結局それこそが一流劇場たる所以と言えよう。
なんだか身も蓋もない結論になってしまって申し訳ないが、今回の「運命の力」新演出、要するに相当お金がかかっていそうな舞台であった。これを共同演出ではなく単独で制作してしまうバイエルン、誠に恐るべしである。
クシェイの演出コンセプトは明快だ。
「運命の力」とはいったい何なのか。
クシェイはこれを「家族を引き裂き、崩壊の悲劇へと陥れる力」と見立てた。上の写真のとおり、物語は食卓前に祈りを捧げる家族団欒のシーンから始まる。イスに座っている小さな男の子の姿が見えるが、この少年こそ数年後に復讐の鬼と化すドン・カルロだ。
ドン・アルヴァーロの乱入によって幸せな家族の崩壊という運命の歯車が動き出す。各場におけるあたかも「崩落」をイメージさせる壮大な舞台装置は、現実ではなく「悪夢の世界」を表し、そうした悪夢の中で登場人物がもがき苦しみつつ物語が進行するというわけである。
二人を看取るのはグァルディアーノ神父だが、さて、ここで上記の配役をもう一度注目してほしい。
このようにすることで物語に一貫性をもたらしつつ、家族の悲しい成れの果てを観客がしっかり目の当たりにするという筋書きになっているわけである。
なかなか良く出来ている!
ただし、一つだけ個人的に引っかかる点が。
というのも、このように家族が食卓を囲む場面から始まる家父長制度の崩壊を演出コンセプトにした全く別のオペラを、昨年エクサンプロヴァンス音楽祭で観ているのだ。(チェルニャコフ演出によるモーツァルトのドン・ジョヴァンニ)
もちろんクシェイがこれをパクったとかヒントを得たということは決してないんだろうけど、なんか二番煎じの印象を持ってしまったのは少しだけ残念であった。
歌手についてであるが、もうこの場ではカウフマンの恨み節は一切書かない。書く必要がなくなってしまった。
代役を果たしたトドロヴィッチは、ピンチヒッターであることを微塵も感じさせず立派に歌い、演じきって万雷の拍手をもらっていた。本人もガッツポーズ。あまりにも万全だったので、ひねくれ者の私は「まさか出来レース=最初から仕組まれていた登板じゃねえだろうなー」などと思わず勘ぐってしまった(笑)。
来年4月、彼は「バイエルン州立歌劇場でも同役で出演」という輝かしい実績(笑)を引っ提げて日本にやってきます。お楽しみにー。
圧倒的な歌唱力で観客全員のハートを鷲掴みにしてしまったのがハルテロス。力強さと繊細さの両方を兼ね備えていて、本当に素晴らしかった。ワーグナー・ソプラノとしても高い評価を得ているが、ヴェルディもまったく遜色が無い。昨年10月、ウィーンのドン・カルロでは降板してしまい聴けなかったが、エリザベッタ、さぞ素晴らしいのだろうなあ。是非また聴く機会を得たいものだ。
もう一人のビッグネーム、テジエももちろんさすがの上出来。
彼らのハイレベルな歌唱のおかげでカウフマン不在の事を忘れさせてくれたし、旅行の最後を見事に飾ってくれた。そういう意味では本当に感謝だ。