クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/11/30 新国立 ドン・カルロ

2014年11月30日   新国立劇場
指揮  ピエトロ・リッツォ
演出  マルコ・アルトゥーロ・マレッリ
ラファウ・シヴェク(フィリッポ2世)、セルジオエスコバルドン・カルロ)、マルクス・ヴェルバ(ロドリーゴ)、セレーナ・ファルノッキア(エリザベッタ)、ソニア・ガナッシ(エボリ公女)、妻屋秀和(宗教裁判長)   他
 
 
 生誕200年は去年の話。今年は普通の年だというのに、相変わらずヴェルディ・オペラを鑑賞する機会の多いことよ。別に「どこかでヴェルディをやっていないか?」と探しているわけでもないのに。
 要するに、国内でも海外でも、それだけ上演の機会に溢れているということなのだ。記念イヤーがあろうがなかろうが、実は関係なし。「オペラを探せば、ヴェルディに当たる」は既成事実。世界のどこの歌劇場でも同じ。避けて通ることなど出来ないのである。
 
 だからといって「とりあえずヴェルディやっときゃいいだろ」みたいな風潮には苦言の一つでも呈したいところだが、言ったところで何も変わらないのもこれまた先刻承知済み。幸いヴェルディは嫌いではないのだから、意義のある(と思われる)公演には足を運ぶことといたしますか・・・。
 
 ということで、新国立劇場ドン・カルロ再演に行ってきた。
 8年前のプレミエも鑑賞したが、正直に言うとあまり覚えていない。インパクトに乏しいプロダクションだったかもしれないわけで、あまり期待せずに劇場に出かけたのだが、これがどうして、なかなか良かったのだ。奥が深かったのだ。チケットを買った時点では意義がある公演かどうか疑問だったが、行ってみたら十分に意義のあった公演だった。
 
 8年前、さしたる印象が残らなかった最大の原因は、抽象化された舞台装置だったと思う。
 そこに十字架が暗示されていることは、当時においても理解できた。だがその時は「なんとなくそういうことか」くらいにしか思わなかった。あとは装置が動いて舞台の形が変わるだけ。印象に残らなかったのは、こちらがその程度にしか受け取らなかったせいだろう。
 
 今回改めて観て、そこに演出家の意図が存在していることを発見した。
 
 舞台装置である直方体の壁が場面ごとに回転し、角度を変え、向きを変える。初めて気が付いたのだが、こうした装置の動きによって舞台が変化しても、どこかに必ずスクウェアな状態があって、それがクロス(十字架)を暗示させるようになっている。クロスは壁やその隙間によって出来る形だけでなく、照明を使って指し示されることもある。
 
 場面が動いても常にクロスの存在が暗示される - ここにこそ重要な意味があった。
 つまり、当時のスペイン王朝における宗教の絶対的権威がそこに示されていたのだ。クロスこそ「宗教の絶対権威」を具象化したものである。フィリッポの王権も、カルロとエリザベッタの不遇な運命も、フランドルの行く末も、王の信頼を得ているロドリーゴの処遇も、すべて絶対であるカトリックの権威下で裁かれる。
 
 この物語では、登場する主要な人物すべてが苦悩を抱えている。
 なぜか。
 定めによって抗うことが出来ない力に屈服されているからだ。それは中世のヨーロッパ封建社会におけるがんじがらめの不自由そのものということだ。
 
 このことを踏まえた上で改めて舞台を眺めると、四方を壁に囲まれた居室空間は非常に閉鎖的で、息が詰まるかのようである。
 ある時、壁が動き、光が差し込んで、まるで扉のように開くことがある。その先に救いの場があるかのように見える。しかしその瞬間、我々の目に飛び込んでくる形状は、暗示されたクロスなのである。絶対権威からは逃れることは出来ない。不自由であることに何ら変わりはない。
 だからカルロもエリザベッタも、もう現世では諦めるしかない。来世でもう一度会おう。その時は一緒になろう。その時までアッディーオ。
 でも、もし・・もしも救いの可能性があるとしたら・・・それは「天の声」かもしれない。火刑で命を落とす異教徒たちは天の声に導かれながら神の下へ旅立つ。カルロもまた先代の声(修道士)に導かれながらその場を後にする・・・。
 
 ドン・カルロとはそういう物語であった。演出家マレッリが描いたドン・カルロを、私は以上のように捉えた。
 
 大きな観点で以上のとおり読み取ったが、その他にも細かい事に気付いたことがいくつかあったので、少し付け加えたい。
 私の目の錯覚なのかそれとも深読みし過ぎの影響なのか、ある場面で、形作られた舞台全体がまるで十字架が印された西洋の棺桶のように見えた所があった。あれはたまたまそう見えただけなのか、気のせいなのか、それとも・・・。
 
 もう一つ。小道具として白いハンカチ(スカーフ)が使われていたことを見逃してはならない。これはエリザベッタの象徴であろう。白はすなわち純潔。
 ハンカチ、投げ掛けられる疑い、そして純潔・・・。
 何となくあの物語を想起しないか。そう、オテロだ。エリザベッタとデズデモナの関連性、共通性。共に不遇な運命を背負っている。これも深読みのし過ぎなのであろうか・・・。
 
 
 歌手の話に移ろう。
 会場の誰もがノーマークで「おっ!?」と思ったのは、カルロ役のエスコバルだろう。喉がぱこーんと開き、ホールの隅々まで届く大きな声。ちょっと脳天気っぽいが、抜けるように響く声というのはそれだけで魅力十分。武器を持っているのは強いのである。結構ブラヴォーも飛んでいた。演技は大根(笑)。
 同様に、フィリッポのシヴェクも強靭な喉を持つ。地に響くような太い声で、どちらかと言えば宗教裁判長の方が声質的に合っているような気がするし、あとはスパラフチーレとか・・・なんて思っていたら、帰宅後にプロフィールを確認すると、ど素人に指摘されるまでもなく、とっくにレパートリーらしい。こりゃまた失礼しましたっ!
 彼らに挟まれた格好となったロドリーゴ役のヴェルバはちょっと分が悪かった。仕方ないよな。昨年のザルツではベックメッサーを巧みな演技で好演していたヴェルバだったが、今回の演技は平凡だった。
 これは演出の責任かもね。マレッリは装置に力を注ぎすぎて、歌手の振付まで手が回らなかったか。
 
 エボリのガナッシはさすがの貫禄。最初の「美しい宮殿の庭で」のアリアは「ありゃ??」と思ったが、夜の逢引現場でカルロに袖にされて復讐に燃える場面や、「酷い運命よ」のアリアは文字通り炎の歌唱で、聴衆の度肝を抜いた。すげえー。
 エリザベッタのファルノッキアはまあまあだったかなあ・・・。彼女は一時期、その活躍は華々しかったが、最近は一流歌劇場のキャストから名前が見当たらなくなってきた気がする。巻き返しを祈りたい。