指揮 ガブリエーレ・フェッロ
演出的に何が素晴らしかったのか、詳述したい。
舞台は重厚でがっしりしたものだった。装置は一見すると非常にシンプルだ。ご覧になった方は、この舞台装置をどう見ただろうか。私は、巧みに練られた意図が存在しているとみた。
階段状の空間をブロックで出来た壁や柱が取り囲み、ちょっとした装置の動きや照明によってそこが修道院内になり、広場になり、室内になり、牢獄になる。これは、わざと飾り気を排した無機質なブロックを積み上げたことで、いかようにも捉えることを可能にした舞台デザイン効果である。
そして、その無機質なブロック壁により、冷たさ=冷酷さ、固さ=堅苦しさ、囲まれた空間=閉塞性が示される。これらは当時のスペイン王室体制や、異教を認めない教会の排他的性質をそっくりそのまま表しているのだ。
そうした縛られたかのように息苦しい空間の中で、王は権威ある立場と一個人の間で悩み、王妃と王子は悲運の定めに悩む。そこにはどう悩んでも乗り越えることが出来ない壁が立ちはだかる。これこそがマクヴィカーが捉えた演出上の核心に違いない。
このことは封建的な中世ヨーロッパにおいて顕著であり、現代から照らすと異様とも言える価値観であることから、読替えで現代に移すことをあえてせず、当時そのままを再現した衣装を着させたのではないかと読み取ることも出来るだろう。
以上のように解釈していけば、あっと驚かせた最終場面(ドン・カルロが父であるフィリッポの手兵によって殺められる)も筋が通る。
つまり、王といえども、中世社会や王制の掟や定めに抗うことが出来ず、親子の絆や情は教会の権威の前では無力と化すということ。
第4幕でフィリッポが宗教裁判長との激しいやりとりの後に「結局、王座は祭壇の前に屈するしかないのだ」と嘆いており、その言葉をマクヴィカーが幕切れに具現化したのである。
それでもフィリッポは息子ドン・カルロの亡骸を抱く。父として自責の念に駆られつつ、乗り越えることの出来ない壁への無力感を感じながら。
歌手について。
日本を代表するテノール(ということらしい)福井さんの裏キャストとして、若手の山本さんが王子ドン・カルロ役を務めたが、健闘していたと思う。全幕を通してみると所々で粗削りの面も散見されたが、これから経験を積んでいけば改善されるだろう。逆に言えば伸びしろがあるということだ。
聞くところによると、これからイタリアに渡って更なる研鑽を積む予定であるとのこと。頑張って欲しい。私は名前を覚えておくので(忘れなければ、ね)いつか大輪の花を咲かせてほしい。
エリザベッタ役に予定されていた安藤赴美子さんがインフルエンザで急遽降板になってしまったのはとても残念だった。彼女のエリザベッタを聴きたかった。ただ、もともと表キャストだった横山さんが二日連続で歌ってくれたのはピンチを救ってくれてありがたかった。
ワーグナーも得意とする重量級のソプラノだが、これまで聴いた中ではこの日のエリザベッタが一番良いと感じた。さすがの貫禄だった。
指揮のフェッロは、悠然とした音楽を構築していた。ヴェルディ特有の熱気やスペクタクル性は影を潜めていたが、そうした音楽作りが結果的に今回の演出にはマッチしていたのではないかと思う。たまたま、ね。
最後に、今回5幕版を採用したことは快挙だと思う。国内カンパニーの上演で、これまで5幕版はほとんど行われていないのではないか。
4幕版は、オペラとして音楽として、十分にOKだとは思うが、物語的には前段が省略されるので、唐突感が否めない。
確かに5幕版はその分長くなるが、フィリッポとドン・カルロとエリザベッタの複雑な事情による三角関係が詳らかにされる分、理解しやすい。
それに上質の公演であれば、5幕版でも決して冗長にならないことが今回の舞台で証明された。これからのドン・カルロ上演に一石を投じたとも言える価値のある公演だったと思う。