2013年6月22日 新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだトリフォニーホール
指揮 ダニエル・ハーディング
ハーディングはコンサートで積極的にマーラーを採り上げており、聞く機会が多い。今回の第6番も、5年前の東京フィルに続き2回目の鑑賞だ。
ところが、私自身にとって彼のマーラーは、いつも良い演奏だという感想は抱くものの、なぜか打ちのめされるほどの圧倒的なインパクトを得た経験が少ない。心地良い快演に「さすがハーディング!」と胸がすく思いに駆られることはあっても、ビリビリと痺れるような感動にまみれることがない。二塁打は放つが、試合を決定づける特大ホームランにならない、みたいな。
今回の演奏を聴いて、なぜそういうことになるのかが何となく分かった。
要するに、「クール」なのである。
ハーディングのマーラーは聡明で、理知的だ。タクトは手際がよく、鋭くてキレがあり、演奏は非常に快活である。前に進もうとする躍動感があり、あまり立ち止まろうとしない。オーケストラへのコントロールも極めて俯瞰的だ。
(ハーディングの場合、曲によってはディティールにこだわり、ある部分について立ち止まってでも徹底的に掘り下げる作業を行うことがしばしば見受けられるため、マーラーに関して言えば、通常とは異なるアプローチを採用しているとも言える。)
打ちのめされるほどの圧倒的インパクトが得られないのは、このクールさゆえだ。
それこそがハーディングの解釈であり、ハーディングのマーラーであるため、別に否定しようとは思わない。
だが、これまでの私自身のマーラー体験を振り返って、強い感動に包まれるのはバーンスタインやシノーポリ、インバルのような「熱く、耽美で、感傷的な」マーラーである。今年3月のカンブルランによる読響も熱い演奏だった。
まあ、多分に好みの問題なので、あまりくどくど言わずこのへんにしておこう。繰り返し言っておくが、良くないと言うつもりも否定しようという気も、更々ない。色々な解釈を楽しむのがクラシック音楽鑑賞の醍醐味なのだから。
ミスは起こる。金管楽器の場合は特に起こり得る。
だが、ネット等による諸氏から報告によると、前日の公演でも相当ミスっていたというではないか。だとするなら、それはプロとして恥ずべきであり、「しっかりせい!ちゃんと練習せい!」と言いたい。