私のこれまでのクラシック人生で、「くそー、聞けなかった~、残念~」という悔しい思いに駆られているものの一つが、ムラヴィンスキーである。
1986年9月、ムラヴィンは手兵のレニングラードフィルを率いて日本に来る予定だった。公演チケットを買い、実際に来日するのを心待ちにしていたのに、巨匠は日本に来なかった。体調不良が理由だった。この時83歳。亡くなるのはこの2年後だから、確かに体調不良だったのだろう。やむを得ない。でも、私はどうしてもムラヴィンを聞きたかったので、悔しくて悔しくて、地団駄踏んだ。
この時、ムラヴィンの代役として日本にやってきたのが、マリス・ヤンソンスだった。
「ムラヴィンが振らないレニングラードフィルなんて聞いても仕方がない。ましてや、ヤンソンスなんてどこの馬の骨じゃい?ますます聞く気もしない。」と、私は完全に落胆ムードだった。チケット代金を払い戻ししようかと思った。だが、「腐ってもレニングラードフィルだしな」と気を取り直し、コンサート会場である昭和女子大学人見記念講堂(懐かしいのう)に足を運んだ。
ところが、だ。
それは、今まで聞いたことがない、とてつもない音だった。鉄のカーテンの向こう側の冷酷無比な音。シベリアの大平原から吹き付ける吹雪の音。あたかも流氷がミシミシと割れるような音・・・。これらを紡ぎだしていた指揮者こそヤンソンスだった。代役を感じさせない貫禄と風格が既に備わっていた。
だが、私は迷わず、テミルではなくてヤンソンスを選択した。プログラムは今から思うと「それでいいのか?!」というものだったが(1曲目:ベト7、2曲目:ロココ風変奏曲、3曲目:ローマの松)、演奏は実に素晴らしかった。
この時、私ははっきりと確信した。「ヤンソンスはいい指揮者だ!将来、大物になる!」
ムラヴィンの後継を争った二人は、方やサンクトペテルブルクフィルの音楽監督に就任して前途洋洋、一方後継者争いに敗れたヤンソンスは、その後ピッツバーグ交響楽団やオスロフィルなど、やや都落ちとも言えるようなポストを歴任し、ライバルの雌雄は完全に決したかに思えた。
だが、音楽の神様はヤンソンスに微笑んだ。その後のヤンソンスの活躍ぶりと華々しいキャリアはご承知のとおり。ヤンソンスは、バイエルン放響とコンセルトヘボウ管という世界のトップオーケストラの二つを手に入れている。今、世界で一番幸せな指揮者と言っていいだろう。
私自身、その昔、若きヤンソンスを「将来、大物になる!」と嗅ぎ分けることが出来たのは、なんだか非常に嬉しく、そして誇らしい。
さあ、いよいよ明日から、そんなヤンソンスのキャリアの集大成とも言うべきベト全チクルスが始まる。
頼むぞ!ヤンソンス!