クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2012/6/2 hr響(フランクフルト放響)

2012年6月2日  hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)  横浜みなとみらいホール
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
メンデルスゾーン  ヴァイオリン協奏曲
 
 
 まず最初に正しておきたいこと。「フランクフルト放送交響楽団」ではない。正式名称は「hr交響楽団」である。合併により、名称がとっくに変わっている。今、現地で「フランクフルト放響」という名称は一切使われていない。
 にもかかわらず日本でこの旧名称を使い続けているのは、一にも二にも興行的な理由だ。要するに、「hr(※)」なんていう誰も知らない名称で公演を開催しても、「それじゃチケットが売れないだろう」というわけだ。
 まあ主催者の意向は分からないでもない。「フランクフルト放響」は、インバルとともに数々の名演・名盤を残し、今でも圧倒的に名前が知られているわけだから。
 本音を言えば、私だって馴染みのあるこの旧名称で呼びたいところだ。だが、せっかく装い新たにスタートを切っているのに、そうやって過去の名称を使い続けることは、先方に対して失礼ではなかろうか。なので、私はあくまでも「hr響」と呼ぶことにする。
 主催者も、せめて「hr交響楽団(旧フランクフルト放送交響楽団)」と両名併記したらどうだろうか。
(サンクト・ペテルブルグ市の団体に未だに「レニングラード」を使うのはもういい加減やめましょうね。)
 
(※hrの「h」はヘッセンhessen)という州の名前の頭文字。フランクフルト(Frankfurt am Main)はヘッセン州にある。「r」は放送(rundfunk)の頭文字。つまり、ヘッセン放送交響楽団。だからといって「hr」は略されたニックネームではなく、正式名称なので注意。)
 
 この日は、前半プロでメン・コンがあってメインがブル8という、ボリューム満点のコンサート。「ブル8やるならこれ1曲のみ」という公演がほとんどの中、このプログラムはすごい。そういえば、以前もヤルヴィはhr響との来日コンサートで、「マラ9」の前に前半プロを置いたことがあった。(R・シュトラウスの「4つの最後の歌」)
 つまり、確信犯でそういうプログラムにしているのだ。そこらへんの彼の狙いについては、後述しよう。
 
 
 まずは‘ヒラリン’ことヒラリー・ハーンのメン・コン。絶大な人気を誇る彼女が登場すると、会場の空気が一瞬にして華やいだ。ステージ上の彼女は理知的で気品があり、モデルのように美しい顔立ちと併せ、まるでギリシャ神殿で神に仕える巫女のような清らかさが漂う。(素顔の彼女は、明るくて茶目っ気のある、いかにもアメリカ人らしい普通のお嬢さんらしいが。)
 
 そんな彼女のメンデルスゾーンは、いつもながら「素晴らしい」の一言。どんなに早いパッセージでも全ての音符が綺麗に並ぶ。「無駄な音符は一音もない」という作品に対する真摯な姿勢もさることながら、それを可能にする基礎テクニックが盤石。
 指揮者やオーケストラとの掛け合いも絶妙で、演奏しながら時おり見せる笑顔は、競演が楽しくて仕方がないといった感じだ。演奏者が「いつまでも演奏していたい」という喜びを溢れさせ、聴き手も「いつまでも聴いていたい」と願いながら共有している時間を慈しむ。「幸せなひととき」というのは、こういうことを言うのだろう。
 
 
 さて、メインのブル8。実はこれが問題だった。うーーーむ。
 
 最初からずっと‘違和感’だった。何かが違う。ブルックナーらしくないのである。
 ブルックナーと云えば、やっぱアレでしょう。教会内に響く厳かで壮麗で巨大な音響。悠久の歩み、超然たる時空、原始の森から聞こえる自然の創生と共鳴。我々は立ち止まり、閉じたまぶたに無限に広がる宇宙空間にスリップしながら、「人生とは何か」について自問する・・・。そういう奥深~いブルックナーを、ヤルヴィは根底から否定しているのである。
 
 ヤルヴィにぶっちゃけ聞いてみよう。「あなたの演奏は、およそ本流からかけ離れ、ブルックナー特有の崇高な精神性と無縁であるが、どういう意図があるのか?」と。
 
 ヤルヴィはこう答えるに違いない。(以下、あくまでも推測。)
「本流って何ですか?精神性とは何ですか?自由で無限な解釈が可能な交響曲の演奏にあたって、縛られる規範などないはずです。そもそも規範とはなんですか?『ブルックナーはかくあるべき』と誰が勝手に決めたのですか?」
 
 話は平行線を辿ることだろう。立ち位置、出発地点が違うのだ。
 
 そもそも、ヤルヴィは長大なこの交響曲を、「大曲」とみなしていない。彼にとっては、ブルックナーマーラーなどの重厚長大交響曲も、軽薄短小交響曲も(誰のとは言わん(笑))、同列扱いなのだ。重要さにおいて、同じなのだ。ブル8やマラ9だからといって特別扱いしない。だから前半プロが付くし、ブル8の演奏後にアンコール曲(!)が演奏されたりするのだ。
 
 こういう演奏について、好きか嫌いか、自分の好みに合致しているかどうかで論じるのは構わない。いいと思う。勝手だ。
 だが、「良くない」「ダメだ」と否定するのなら、「そもそも『良い』とされる演奏とはなんぞや」について、拠り所も含めて明確に答えられなければならない。ヤルヴィは「そんな拠り所は存在しない」と言っているようなもので、水掛け論になるだけだが。
 
 ああ、一筋縄ではいかないヤルヴィ。手ごわいヤツ。