指揮 パーヴォ・ヤルヴィ
マティアス・ゲルネ(バリトン)
亡き子をしのぶ歌を聴くのは久しぶりだと思って調べてみたら、7年ぶりだった。メッツマッハー指揮ベルリン・ドイツ響。歌ったのは・・・マティアス・ゲルネ。
うーん、そうであったか。忘れていた。
そのゲルネの歌が素晴らしい。歌というより、心情の表現そのもの。しかも悲嘆にくれる感じではなく、天国にいる我が子を祝福するかのように、暖かく包み込むような歌。その優しく繊細な音楽を表現するために、ゲルネは全身を大きく揺さぶって声をコントロールしていた。
メインのブルックナー。これがまたいかにもヤルヴィらしい音楽作りで、唸ってしまった。
先日のスクロヴァチェフスキもそうだったが、いわゆるブルックナー指揮者と言われる多くの巨匠たちは、作品に向かってアプローチする。対峙するのはスコアである。指揮者人生を賭けた作品との一対一勝負は、孤高とも言えるほど峻厳さを増し、そこに威厳に満ちた雄渾な音楽が構築されていく。
翻って、ヤルヴィが見つめているのは目の前のオーケストラの反応だ。
彼は、自らの音楽の投げ掛けにオーケストラがどのように回答するのかを注意深く聴いている。
何を隠そう、そうしたアプローチに序盤は戸惑いを覚えていた。この戸惑いは、かつてhr響との来日公演で聴いたブル8でも同様に感じたもの。個人的な好みでいうと、ちょっと私のブルックナー観とは異なる。
だが今回は、終楽章のクライマックスに向かっていく推進力がとても大きく、壮大なスケールで陶酔感を味わうことが出来た。なので、最終結果としては満足。それはもしかすると、作品の偉大さに救われたということかもしれないが・・。
ということで、ヤルヴィのブルックナーには、私自身はまだ100%の信頼を置いていない。なので、もう少し修行を重ねていくとしましょう。
続けて聴くこととなるバレンボイムは、果たしてどんなアプローチになるのだろうか。