ハリウッド映画、特にSF、スリル&アクション、ヒーロー物などを見るたびに辟易することがある。
それまで散々、やれ事件だ、やれ天地異変だ、やれ宇宙人の侵略だ、で大惨事となり、多くの人命が失われるのに、最後にはヒーローの大活躍やら、ヒーローとヒロインの愛の力だとか何とかいって万事解決、「終わり良ければ全て良し」で万歳万歳、「本当に良かったね!」とハッピーエンドになってしまう・・・。
ちょっと待ってよ。本当にハッピーなのかよ。じゃ聞くが、それまでに失われた沢山の命はどうなるんだい?そういうのはどうでもいいのかい?それでいいのかよハリウッド。
お気づきの方もいるだろうが、トゥーランドットもこれらと全く同じ構図だ。
やい、カラフよ。愛の力で見事にお姫様をモノにして、本当にめでたしめでたしか?オヌシのためにリューは自ら命を絶ったのだよ。
かわいそうなリュー。彼女の献身的な愛こそ讃えられるべきだ。
・・・などと思う私はやっぱり偏屈なのだろうか??(笑)
私が初めてトゥーランドットを劇場で生鑑賞したのは1994年、東京ではなくロンドンでのロイヤルオペラハウスだった。
アンドレイ・セルバン演出のこのプロダクションでは、第3幕の一番最後のクライマックス、カラフとトゥーランドットが結ばれ人々が歓喜に湧く場面で、なんと、そこにリューの亡骸を運び込むという演出で非常に印象的だった。「そうそう!そうであるべき!!」と私が大いに溜飲を下げたのは言うまでもない。
(ちなみにこの時の指揮者はダニエレ・ガッティ。さらに驚くべきことに、お役人ピン・パン・ポンのピン役で、サイモン・キーンリーサイドが出演していた!)
ところで、私はこれまでたった一度だけ、プッチーニの絶筆となったリューが自害した場面で、そこでオペラが終了するというプロダクションを見たことがある。2004年11月、場所はケルン市立歌劇場で、指揮は準メルクル、演出はギュンター・クレーマーだった。
初演となったスカラ座のプレミエを担当したトスカニーニも、初日だけ「ここでプッチーニは亡くなったのです。」と観客に説明して指揮棒を置き、演奏を終了させたそうだが、現実にそのような舞台に遭遇すると、これがまた実に戸惑う。
「え??うそ?終わり??マジ?」ってな感じ。
音楽的には、つぎはぎで応急措置をしたという問題を抱えるにしても、だからといって純粋にプッチーニが書いた部分まで、としてしまうと、物語としては消化不良甚だしいのだ。
やはり、だ。めでたしめでたしのハッピーエンドで締めくくるのは仕方がありませんね。良しとしましょう。
ただし、ほんの少しだけで良いからリューに思いを馳せましょうね、皆さん。