クラシック、オペラの粋を極める!

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2023/2/25 二期会 トゥーランドット

2023年2月25日   二期会   東京文化会館
プッチーニ  トゥーランドット
指揮  ディエゴ・マテウス
演出  ダニエル・クレーマー(ステージデザイン等  チームラボ)
管弦楽  新日本フィルハーモニー交響楽団
田崎尚美(トゥーランドット)、樋口達哉(カラフ)、竹多倫子(リュー)、ジョン・ハオ(ティムール)、牧川修一(皇帝アルトゥム)、小林啓倫(ピン)、児玉和弘(パン)、新海康仁(ポン)   他


チームラボが手掛けたスペクタクルな舞台が話題になっている本公演だが、私にとっては、ルチアーノ・ベリオによる第3幕補作版を採用した上演を初めて聴いた、というのがポイントだ。

ベリオ版は、2002年ザルツブルク音楽祭で上演された収録映像DVDを持っている。
これを初めて視聴した時は、違和感を覚えた。自分が一般的なアルファーノ版に慣れ染まっていたからだ。
当時、トゥーランドットの物語はハッピーエンドだと思っていた。高らかな賛歌である美しい大合唱は、物語を締めくくる最高の添え物。現代的な響きを持つベリオの補作は、これが否定され、なんだか添え木として金属をくっつけたような妙な感覚を抱いたのだった。

あれから年月が経ち、その間多くのトゥーランドットを鑑賞してきた。私自身の目も耳も熟成し、現代的な音色、現代的な演出解釈も受け入れられるようになっている今、本公演を聴いて、ベリオ版は十分に「あり」だと思うに至っている。

今なら理解できる、「トゥーランドットの物語は必ずしもハッピーエンドだとは限らない」ということを。

アルファー二版の大団円は、たしかに感動的である。
しかし、かけがえのないリューの命が失われているのにもかかわらず、愛の勝利ですべてバンザイ!というのが、釈然としない。
ベリオ版の暗みを帯びた響きからは、そうしたバンザイが抑えられ、その代わりに喪失感や虚無感が現れて、むしろ解釈的にそっちの方が正しいんじゃないか、とさえ思えてくる。作品の既存解釈に対する問題提起という意味でも、ベリオ版の採用は良い選択と言えるのではないだろうか。


D・クレーマーの演出も見応えがあった。
事前の予想で、チームラボによるデジタルアートを駆使して単に舞台を鮮やかに飾り、イメージ空間を創出することに終始するだけなのではないかと思っていたが、その予想は外れた。きちんと作品を読み込み、独自の解釈を施していた。その点については、大いに評価したい。

例えば、リューの死後、彼女を追ってティムールも自害する、という本来の脚本にないシーン。
ティムールとカラフの親子間に溝が存在し、それがティムールに3重に降り掛かった結末としての悲劇、という新解釈だ。
3重とは、まず一つが、世継であるカラフが立ち去っていたその隙に帝王の座を追われたという恨み、次に、せっかく再会したというのにまたしても父を見捨てて自分の道を選ぼうとする息子の我儘、そして、挙げ句の果てのリューの死、である。こうすることで、物語上に父ティムールの苦悩が一層際立つことになった。
父からすれば、カラフは決して立派な息子でも、純真なスーパーヒーローでもなかった、ということなのだろう。それゆえ、カラフの衣装や風貌は何だか怪しげでパッとしないのである。


今回のクレーマー解釈のもう一つの目立った特徴である、男性器を想起させる股間の飾りと、これを切り裂こうとする去勢の儀式。
トゥーランドット姫の男性に対する拒絶であり、男社会の支配への拒絶を表していることは明白だ。
その解釈自体は悪くない。
だが、股間の強調は卑猥さと紙一重。演劇的にあまり美しくないのが残念。もう少し何か別の手法を見つけられなかっただろうか。


歌手たちは大いに健闘したとは思う。
だが、主役の二人が、重量級の役をこなすためにかなり力を込めているな、という印象だ。樋口さんは、決して悪い歌手ではなく、二期会の看板歌手の一人だが、やはりカラフは階級が違うと思う。それでも役が与えられてしまうあたりが、二期会の人材不足、更には日本のテノールの人材不足の露呈と言わざるをえない。(お隣の某国なんか、カラフを軽々と歌える人が山ほどいる)


最後に、群衆を担う合唱に対し、ソーシャルディスタンスの適用というバカバカしい措置からようやく開放されたことを喜びたい。オペラが本来のあるべき姿に徐々に戻りつつあることとして、歓迎したい。

客席側は、相変わらず感染対策を強いられているが・・・。
飛沫を飛ばす合唱がこうして感染対策を緩和させ、黙って鑑賞して飛沫を飛ばさないお客には感染対策を強いる・・・いい加減にしろって。