2025年9月28日 東京交響楽団 ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮 ジョナサン・ノット
合唱 東響コーラス、東京少年少女合唱隊
カタリナ・コンラディ(ソプラノ)、アンナ・ルチア・リヒター(メゾ・ソプラノ)、ヴェルナー・ギューラ(テノール)、ミヒャエル・ナジ(バリトン)、櫻田亮(テノール)、萩原潤(バリトン)、加藤宏隆(バス)
バッハ マタイ受難曲
「マタイ」を生で聴くことは、かけがえのない体験だ。「クラシック音楽史上の最高傑作」という評価も根強く聞かれる作品の鑑賞だからだ。
聴く機会は、それなりにある。一にも二にも、バッハ・コレギウム・ジャパンのおかげである。
一方で、古楽専門でない日本の普通のメジャーオケ公演となると、途端に限られてしまう。
実際、普通のメジャーオケがこの作品を取り上げるのはなかなか大変であろう。バッハの音楽を深く理解し、キリスト教文化や聖書の世界にも精通している指揮者が求められる。奏者は、普段とは勝手が異なる奏法を迫られるかもしれない。単純に規模が長大で、ソリストや合唱も取り揃えなければならないという問題もある。
今回、ジョナサン・ノットが東響音楽監督としてのラストシーズンの中で、本作品を果敢に取り上げた。古楽のスペシャリストではないノットにとっては一つの挑戦であろうし、東響とのコンビにおいても集大成となる仕事であろう。
実は何を隠そう私自身、以前は「マタイ」が苦手だった。
以前の私は、この曲を音楽面だけで捉えようとしていた。受難の物語をよく知らず、対訳や字幕を深く読もうとせず、耳だけで聴いていた。キリスト教徒ではないしね。
すると、「長い」「重苦しい」という壁にぶつかった。リピートも多く、何だか修行を強いられている感じがして、だんだんと敬遠しがちになった。
この曲に開眼したのは、テキストを読み、「キリストの受難」という聖書の物語にしっかりと向き合うようになってからだ。
宗教絵画の理解の到達と似ている。以前はヨーロッパの教会や美術館にある宗教絵画を漠然と眺めていたが、聖書の中のどの場面なのか理解するようになった途端、絵画から受ける印象がガラッと変わった。それと同じだった。
エヴァンゲリストの案内に導かれながら辿っていくと、慈しみや悲しみ、苦しみに対する共感や同情の気持ちが湧いてきて、キリスト教信者でなくても心が揺れ動く。そこにバッハの音楽が染み渡ってくる。
J・ノットの音楽は、まさに物語の出来事を丁寧に追体験しながら、登場人物の心情を浮かび上がらせる取り組みだった。
最初にテンポや奏法などバッハ語法の外形上の決め事を定める。これは、指揮する上での重要な一線であり、抜かりない。
それを定めたあとは、断片に深く立ち止まらず、場面を描写を通じて叙情の表出を図る。細かく箇所をいじるのではなく、流れを重視する。過剰にドラマチックさを演出することは避けつつ、重要な言葉やフレーズはきちんと見逃さず、強調させる。
こうしたやり方は効果的だった。オペラにも精通するノットらしいアプローチが功を奏したのではないかと思う。
また、多くの聴衆にとって、理解の助けになったのが、字幕であろう。ノットのやり方が上記のとおり「物語を紡ぐ」であったから、なおさらである。私自身も大いに役に立った。字幕がなかったら、3時間の長丁場はかなりしんどかったと思う。そういう意味でも、やっぱり「マタイ」という作品は、そびえ立つ高峰である。
合唱の東響コーラス。なんと、全曲を暗譜で歌い切った。練習に相当の時間を費やしたのだろうという推測は、難くない。この曲に精通している三澤洋史さんが合唱指揮を担ったのは、これ以上ない心強い指導だったはず。
クオリティについて少々物足りない部分もあったのも事実だが、マタイを歌ったという経験は、合唱団にとって貴重な財産になったことであろう。