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2024/2/25 東京フィル

2024年2月25日   東京フィルハーモニー交響楽団   オーチャードホール
指揮  チョン・ミョンフン
ベートーヴェン   交響曲第6番 田園
ストラヴィンスキー   春の祭典

 

先日、暗譜の必要性について記事を書いた。「あえて、わざわざ『暗譜する』という作業を行って、公演に臨む」その必要性について、疑問を呈したわけである。

本公演でチョン・ミョンフンは、ベートーヴェンストラヴィンスキーも、暗譜で指揮を行った。
いささかの揺るぎもない確信のタクトを見て、思った。
彼の場合、「一生懸命覚えました」ではなく、長年に渡って作品に取り組み、スコアを見続け、公演を重ねてきたその積み上げの経験によって、もう頭の中に完璧に入っちゃったんだろうな、と。
であるならば、目線を下げて楽譜を見たり、その楽譜のページをめくったり、という作業そのものが不要であり、むしろ煩わしい。
おそらく、そういうことではなかろうか。

まあそれくらい自信満々、完全に確立された完成品、理想形の演奏であった。


「田園」と「春の祭典」。
時代も作風もまったく異なる両作品だが、「表題」と「情景の描写」というところで共通点がある。
指揮者によっては、アプローチとして、そうした「イメージ」を元に音楽を作っていく人もいるだろうし、実際、演奏を聴いて情景を思わず想起したという自分の鑑賞体験も数多い。

だが、チョン氏の音楽を聴いて、まったく異なったメッセージを受け取ることとなり、実に興味深かった。

「イメージ」や「景色」、「テーマ」といったものが見えてこないのだ。

「田園」で見えてきたのは、「交響曲としての様式」であった。
古典主義の造形をきっちりと守る。無駄な装飾やニュアンスを削ぎ落とし、基本に立ち返る。
浮かび上がったのは、ベートーヴェンらしいクラシカルなフォルムだった。

一方のストラヴィンスキーでは、「スコアという剥き出しの素材」だった。
曲想の表現ではなく、音符のさらけ出し。
浮かび上がったのは、原色、天然素地の美しさと荒々しさ。

あくまでも想像だが、私には、指揮者が楽員に対し「楽譜に書いてあるとおり、シンプルに音を出してくれ。あとは私がストラヴィンスキーの形にする!」と指示しているかのように見えた。


チョン・ミョンフンが東京フィルを振ると「オケの音が変わる」というのは、よく言われることである。
その秘密の一端が本公演で垣間見えた気がして、思わず震えた。


ところで、暗譜の話に戻るが、チョン・ミョンフンは次回、6月の定期公演で、メシアン作の「トゥランガリーラ交響曲」を採り上げる。

この珍しくて難解な作品、普通の指揮者がもし暗譜で振ろうとしたら、それこそ上に書いたように、わざわざ『暗譜する』という作業を行うために、相当の勉強の時間を取られるはずである。

だが、チョンはメシアンと直々の交流があった。愛弟子と言ってもいい。彼は「トゥランガリーラ」を録音しているが、その際にもメシアンは現場に立ち会っているのだ。

ということで、6月の公演、果たしてどんな指揮を見せてくれるのだろうか。暗譜で臨むのかを含め、これは楽しみである。