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「復活」ならず

今月21日と24日に予定していた東京フィルのチョン・ミョンフン指揮マーラー交響曲第2番の定期演奏会が、主催者から中止と発表された。
外国人の入国を厳しく規制する措置の最中なので、「チョン・ミョンフンの来日は、まあ無理だろう」というのは、誰もが予想できたこと。それでも、誰か他の日本人指揮者に代替させて、公演を実現させてくれるのではないかと、私は密かに期待していた。

残念ながら、その期待は叶わず。

実は今月、当初のスケジュールでは、偶然にも東京フィルと都響大野和士指揮)の二つのオーケストラが、ほぼ重なるかのような日程で「マラ2」公演を用意していた。

これは実に興味深いことであったと思う。
世界中がパンデミックの嵐に巻き込まれ、明るい兆しが依然として見えないという、まさにそうしたタイミングで、二つの「マラ2」公演が並んだのだ。
もしかしたら、このプログラムはずっと前、コロナが始まる前から決まっていたのかもしれない。蓋を開けてみたら、このスケジュール、このタイミングで二つが並んだわけだが、私にはなんだか「偶然」「たまたま」とは思えない。こういう状況下だからこそ、このプログラム、この作品が必要だったのではないだろうか。
そんな気がするのだ。だって、文字どおり「復活」なのだから。

東京フィルの本公演のサブタイトルは、「必ずよみがえる!」だった。
私はこのタイトルを見て、思わずジーンと来た。
そうだ。必ずよみがえるのだ。
この演奏を聴いて、我々は希望を見出そうではないか。
最終楽章で合唱が高らかに「Aufersteh'n, ja aufersteh'n」(蘇るだろう)と歌い上げるのを聴き、ビリビリと感動にまみれながら、明日に向かっていく勇気を貰おうではないか。

だからこそ、だからこそ、やってほしかった。
チョン・ミョンフンじゃなくたっていい。マラ2を、復活を、やってほしかった。
(チョンは、2017年9月にもこの曲を同フィルと演奏している。)

同じような思いに駆られたクラシックファンは、多かったのではなかろうか。

東京フィルは、なぜ中止という結論にしてしまったのだろう。

ちなみに都響はプログラムを変更した上で、演奏会そのものを存続させた。(ブラームスの「アルト・ラプソディ」と「マラ4」)
都響が「マラ2」を断念したのは、理解できる。
飛沫が飛び交うリスクが伴う合唱入りの作品の演奏に対して特に慎重で、昨年末の「第9」も回避し、チャイコの「くるみ割り人形」に変更したくらい。曲がりなりにも「東京都」の看板を背負っている以上、仕方がないことなのだろう。

一方で、東京フィルは昨年末の「第9」も演奏したし、都響のような公的責務の縛りも無い。
また、中止にすれば入場料収入を失うことになり、少なからずの損害を被るのは明白。
普通に考えれば、上に書いたとおり、誰か他の日本人指揮者に代替させて公演を実現させる運びにするのが、まっとうな手段のはずだ。

ここで思い起こすのは、昨年秋の東響だ。
当初、J・ノット指揮によるブルックナー交響曲第6番がメインプロの公演が予定されていたが、ノットが来日不可能となると、指揮者を替え、メインプロを替え、装いをまったく変えて公演を強行させた。払い戻し原則不可とした主催者に対し、チケットを買った私は「こんなの詐欺だ」と憤慨した。

あとから聞こえてきた話によれば、この時、東響事務局は、指揮者を替えつつ、メインプロ(ブル6)はそのまま据え置いて、公演をやろうとしたらしい。
ところが、音楽監督自身が「この作品の演奏は私自身が責任を全うし、いずれ実現させる」と申し入れたため、やむを得ず、指揮者とメインプロを変えた「ほぼ別物」公演になってしまった、というのである。

あくまでも聞いた話なので、真実のところは分からないが。

同じようなことが、東京フィルでも起こったのではあるまいか。
同じようなやりとりがあり、片や続行、片やキャンセルの判断をした・・。
もちろん、個人的な憶測、勘ぐりだが。


まあいいわい。
とにかく中止と決まったのだ。もうどうしようもないのだ。


考えてみれば、昨年、ベルリン・フィルの来日公演で「マラ2」が予定され、ロンドン響の来日公演で「マラ2」が予定され、いずれも中止。
そして、東京フィルと都響も。

「人類は、いつか必ずコロナに打ち勝つ」と言われている。
だが、今のところは負け続きだ。

早く生で「マラ2」を聴きたいね。
そりゃいつかは聴けるだろうさ。
でも、いったいいつになるんでしょうね。