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N響の指揮者変更

NHK交響楽団は、11月25日、26日に行われる予定の定期演奏会Aプログラムで振る予定だった指揮者の変更を発表した。
本当は御大ウラディーミル・フェドセーエフが指揮をするはずだった。だが、病気により来日不能となってしまった。代替として、N響の指揮研究員である若手二人(平石章人氏および湯川紘惠氏)に引き継ぐことになった。この変更による払い戻しは行わない。

この発表に対し、ある意味当然の成り行きだが、ファンの間で異論、物議が出ている模様。


N響側の理屈については、いちおう分からないでもない。
オーケストラが主催する演奏会というのは指揮者のリサイタルではないのだから、よほどの理由がない限り公演中止にしない。公演中止でない限り、払い戻しをしない。以上について、当然である、と。

一方で、これを承服しない一部のファンの文句も分かる。ていうか、すごーく分かる。
オーケストラのコンサートに行く時、コンサートを選び、そこにお金を払おうとする時、「指揮者」というのは、その選択の決断を左右する重要なファクター。「この指揮者が振るのだから」という理由でチケットを買う人が、一定数いる。で、今回チケットを買った人の中には、「フェドだから買った」、「当初段階から『平石某、湯川某』だったら、まったく眼中になく、絶対買わなかった」という人が、確実に存在するわけである。


更に今回、もう一つややこしい話が加わっている。言うまでもなく、代替指揮者についてだ。
フェドセーエフの代わりが、無名の日本人の若手指揮研究員。
「そんな変更アリかよ! そんなの納得できるかよ!」といった不平不満、クレーム。

そうだよねー。フェドセーエフと同クラスというのは難しくても、せめてもうちょっと「なるほど、この人が振るのか!」みたいな指揮者を見つけてこいよ、とは、ついつい突っ込んで言いたくなるのである。

おそらく、この変更によってコンサートに行くこと自体をやめちゃう人も、少なからず出ちゃうんだろうなと思う。
そんな海の物とも山の物ともつかぬ指揮者の演奏なんか聴きたくない、と。

一方で、こういう声も聞こえてくる。
「こうした時こそ、新たな才能発掘のチャンスではないか!?」。

代わりを任され、託されたお二人は、たぶんものすごく気が引き締まっているはず。
なんたって、巨匠フェドセーエフの後釜なのだ。その重みを感じないはずがない。更にはファンの落胆の気持ちを厳粛に受け止める覚悟だって、きっと出来ていることだろう。だからこそ、持てる力を最大限発揮し、誠心誠意務めたいと臨み、現在寸暇を惜しんで、スコアとにらめっこしているはずだ。


さて、私は、11月25日(土)のチケットを買っていた。フェドのキャンセルは、当然のごとくがっかりした。「行くの、やめちゃおうかな」という考えも、一瞬よぎった。
だが、やっぱり思い直して、予定どおり行くことにした。

別に、上にあるような「新たな才能発掘」という楽しみを見つけようなどとは、これっぽちも思っていないし、期待もしていない。

ただ、私の「コンサートに行く」「チケットを買う」その衝動要因には、もちろん「良い演奏家を聴きたい」というのも少なからずあるが、「曲、作品を聴きたい」というのも大きいのだ。

今回のプログラムでいうと、リムスキー・コルサコフの「雪娘」組曲や、チャイコフスキーのバレエ組曲「眠りの森の美女」を、私は「生で聴きたい」と思った。
正確に言うと「フェドが振るこうした作品を聴きたい」だが、その文言から「フェド」が抜け落ちたとしても、まだ辛うじて「作品を聴きたい」が残る、というわけ。

今年の4月にドイツに行ったが、バレンボイムが振るはずだった「指環」や、ティーレマンが振るはずだったシュトラウスのオペラで、指揮者が変更になってしまった。
この時、この事態を静かに受け止めることが出来たのは、自分の中に「それでも、指環やシュトラウスのオペラを聴ける!」という喜びが十分に残っていたから。つまり、そういうこと。

で、実際に音楽に耳をすませば、その音楽が楽しませてくれる。作品が心を踊らせてくれる。そして満足する。
コンサートなんて、案外そういうものなのだ。


ただし、大切なことが一つある。
「本当はフェドだったんだよなあ・・」と無意識のうちに沸き起こってしまう雑念を、しっかりと封じ込めること。

これ、めっちゃ重要(笑)。