クラシック、オペラの粋を極める!

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バーデン・バーデン・イースターフェスティバルの「影のない女」

NHK-BSで放送されたバーデン・バーデン祝祭劇場イースターフェスティバル「影のない女」を観た。
今年の4月に上演されたライブを収めたもので、本公演は私も現地にて鑑賞した。つまり、観るのは二度目ということになる。

生で鑑賞した時、当然のことだが、その時感じたこと、思ったことがあった。演奏については、究極と言えるくらい素晴らしいと思い、感動した一方、演出については、理解できたことと、まったく理解できなかったことが、真っ二つに共存した。

今回改めて映像作品として見直してみると、印象が変わったこと、印象以上のものを受け取ったこと、全然印象が変わらなかったことなどが色々あって、それはそれで興味深かった。


まず、キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによる演奏についてだが、収録された音でも十分に華麗で芳醇なサウンドが伝わってくるものの、それでもやっぱり生で届けられた迫力には敵わない。微妙繊細な表現も完全には再現しきれていない。

まあ、これはある意味、当然のことである。
ていうか、これが同じだったら生鑑賞に出向く必要なんか全くないわけで、生だからこそ得られる芸術の神秘現象を体験するために、わざわざ高いお金を払っているのである。
収録というのは、所詮は缶詰。真の芸術は生のステージ上にあり。私の一貫した確信だ。


逆に、今回改めて素晴らしさを認識できたこととして、バラックの妻役ミーナ・リーサ・ヴァレラの歌唱が挙げられる。

この時のヴァレラについて、実はプレミエ(初日)から不調が伝えられていたらしい。2回目上演の際は演技のみで歌唱をE・パンクラトヴァに代わってもらい、私が観た3回目も開演前に「まだ完全に回復していない」というアナウンスがあった。(私はこの理解できないドイツ語のアナウンスをもって、『パンクラトヴァが代替出演』とすっかり思い込み勘違いをしてしまったのであった。)

今回の映像は、この2回目と3回目の上演を編集したものであるという。
ということはつまり、ヴァレラについては私が鑑賞した時のものがすべて収録に使われたことになるが、「不調から完全回復していない」というのが嘘なんじゃないかと思うくらい、文句なしに素晴らしい。これで完全復調していたら、どんだけになるわけ?

(※このヴァレラについては、2022年バイエルン州立歌劇場の「影のない女」上演の際、エピソードが発生している。当初のバラクの妻役だったニーナ・シュテンメが急病ドタキャンで、なんと、当日、フィンランドにいたヴァレラが急遽呼ばれ、飛行機でミュンヘンに向かい、空港から警察の護衛先導を伴って劇場入りし、2時間遅れをもって開演にこぎ着けたのだという。終演は夜中の12時になってしまったとのことだ。)


最後に演出についてであるが、“悪い意味で”、生で観た時と印象が変わらなかった。
映像のメリットとして、クローズアップを含め、細かい所作など、生鑑賞では気付けない箇所を再発見する、というのがあるのだが、そうしたメリットが加わったにも関わらず、「やれやれ」と思った印象を改めて拭うことが出来なかったわけである。

予め一つ言っておくと、演出家とドラマトゥルクが制作した舞台の解釈については、感心した部分も幾つもあった。すべてが気に入らなかったわけではない。
だが、最初に観て気に入らなかった部分については、今回見直しても、結局気に入らないまま変わらなかったということだ。


まず、脚本に無い黙役の少女を登場させ、物語を彼女の夢の中の出来事として進行させているが、このように「夢の中の出来事」に仕立て上げるのは、私に言わせれば「安直手法」以外の何物でもないということ。
なぜなら、夢というのは何でもありで、どのようにでも出来てしまう解決策、万能薬のようなものだから。
私ははっきり言いたい。プロなら安易にそこに逃げるな、と。

で、その黙役の少女が最初から最後まで出ずっぱりで舞台上を駆けずり回るのだが、熱演は認めるものの、目障りこの上ない。
その隣で、歌手が魂を込めて歌い、演技を含めて登場人物の心情を全力で表現しているのだ。

なぜ演出家はそこにフォーカスしないのか?
なぜ実際の登場人物ではなく、黙役に舞台上の鍵を握らせるのか?
なぜ音楽が雄弁に語っている時に、その音楽を打ち消すような動きを導入するのか?

結局、この演出家は音楽を信用していないということに尽きる。それは要するに、オペラという芸術を分かっていないということであり、オペラを演出する資格がないということになる。
悪いけど。申し訳ないけど。

私自身は、現代演出は嫌いじゃない。むしろ肯定派といえる。
だが、音楽を、単なる演出上の踏み台にしてほしくない。

指揮者ペトレンコは、それについて何か注文を付けたのだろうか。
最後のクライマックスで、ソロ歌手の極上のアンサンブルを舞台袖に隠し、黙役の少女の延々とした土掘り作業を見せ続けた演出に、なぜクレームを入れなかったのか。
カラヤンだったら、ムーティだったら、絶対にそうしただろうに・・。