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2017/12/8 エレクトラ

2017年12月8日   ウィーン国立歌劇場
演出  ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルク
エレナ・パンクラトヴァ(エレクトラ)、ブン・グリット・バークミン(クリソテミス)、ワルトラウト・マイヤー(クリテムネストラ)、ノルベルト・エルンスト(エギスト)、ヨハン・ロイター(オレスト)  他
 
 
シーズン当初にスケジュールされていた主要キャストは、E・ヘルリツィウス(エレクトラ)、A・ピエチョンカ(クリソテミス)、W・マイヤー(クリテムネストラ)だった。
この三人、4年前にエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演され、「音楽祭の歴史に残る名演」と評された公演と同一である。
「あの感動と興奮をもう一度!」のはずだったが、ヘルリツィウスとピエチョンカが降板してしまったのは痛恨の極み。
 
だが、その替わりにパンクラトヴァとバークミンを、ひょいと代役に立ててしまうウィーン国立歌劇場、恐るべし。彼女らは、他の劇場ならそのまま看板キャストである。
遜色はまったくなし。かくして最高品質はまたしても保たれた。
 
特に、バークミンが素晴らしい。
彼女のクリソテミスに、世間知らずの優しいお嬢様的な軟さは、微塵もない。エレクトラに一歩も引かず、訴えるかのような芯の強さと生命力が溢れ出ている。役そのものを大きく見せてしまうほどの立派な歌唱だ。
 
一方、今年9月バイエルン州立歌劇場来日公演でヴェーヌスとジークリンデを歌い、日本にもその名をしかと刻んだパンクラトヴァ。
実は今年3月、リヨンで同役の歌唱を聴いているのだが、その時以上でも以下でもない。彼女にとって、いたって標準の歌唱。新鮮味、新たなインパクトがない分、印象的でなかったのは、受け手であるこちらの問題とはいえ、少々残念であった。聴き手というのは実に欲深く、我が儘である。
 
マイヤーは、この役について、もう完全に出来上がってしまっている。おそらくどこの劇場でも、どんな演出でも、どんな衣装を着ても、歌唱において微動だにしないのだろうと思う。それはつまり、彼女の「至芸」ということに尽きる。
 
至芸と言えば、もう一つ。
メッツマッハーのタクトによるウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏も、これまた同じ。
本当に絢爛豪華。極上の音響に包まれる興奮。エレクトラは、やっぱりこうでなくては!
 
メッツマッハーは、なんだか、タクトを振りながらオーケストラに対し「行けー! 行けー!」と叫んでいるかのよう。
 
この指揮者の本来の持ち味は、冷静沈着な分析力にある。決して勢い任せにしない指揮者だ。
なのに、叫んでいるように聞こえたのは、ウィーン・フィルの超攻撃的な演奏のせいだ。音が矢のように飛んでくる。怖いくらいだ。
 
演出について。
ビルの地下室のような場所で物語は展開する。
ポイントは地上と地下をつなぐエレベーターだ。
このエレベーターの上昇と降下に、「王妃クリテムネストラがエレクトラに会いに行く」、「オレストがクリテムネストラを殺しに向かう」といった行動の示唆とその果てが当てはめられている。殺されたクリテムネストラやエギストの死体も、上からエレベーターで運ばれてくる。実に分かりやすい。
 
ラストの歓喜のシーンでは、突然多数の現代の若者男女が登場し、一転してダンスパーティになる。
かなり唐突で違和感があるが、あえて演出家サイドに立って深読みすれば、これはエレクトラの人知れぬ感情、願望を表しているのだと思う。
 
エレクトラと言えば、歪んだ親子感情と復讐の怨念がクローズアップされる。
だが、本当はクリソテミスのように、女性らしく素敵な恋愛にうつつを抜かしたい。その深層にある感情の表出がダンスパーティなのだと思う。
これはこれで一つの解釈であり、新たな視点を展開させた演出家の姿勢は肯定したい。