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2017/9/21 バイエルン州立歌劇場 タンホイザー

2017年9月21日   バイエルン州立歌劇場   NHKホール
演出  ロメオ・カステルッチ
オルグ・ツェッペンフェルト(ヘルマン)、クラウス・フロリアン・フォークト(タンホイザー)、マティアス・ゲルネ(ヴォルフラム)、アンネッテ・ダッシュ(エリーザベト)、エレナ・パンクラトヴァ(ヴェーヌス)   他
 
 
音楽的に、これ以上ないという最高レベルのワーグナーだ。
こういう演奏が東京で聴けるのは大変幸せである。
というのも、本場と言われる欧州ウィーン、ベルリン、ミュンヘン、ロンドン、パリに出掛けたからといって、いつも最高の演奏にありつけるとは限らないからだ。
また、ミュンヘンやウィーンの来日公演にしても、せっかく来てくれたのはありがたいが、現地で繰り広げられた上演レベルで測れば「並」なんてことも、これまたよくあることなのである。
 
今回のタンホイザー、新演出上演(プレミエ)が今年5月と新しく、しかも指揮者ペトレンコを始めとして、プレミエ時のほとんどのキャスト(一部入れ替えあり)がそのまま来てくれたというのが、大きい。
バイエルン州立歌劇場は、昨シーズンで最も力のこもったプロダクションの一つを、その勢いのまま持ってきてくれたのだ。
 
ソロの歌手たちが、とにかく素晴らしい。
タンホイザーを歌ったフォークトのなんとロマンティックで美しい声の響き。声の作り方は基本的にローエングリンと一緒だが、心の安らぎを求めて苦悩し、徘徊するタンホイザーという役を完璧に歌い、演じていた。
ヴォルフラムを歌ったゲルネも、歌に情感が込められていて、聴いている人の心を打つ。
 
ツェッペンフェルトとパンクラトヴァも、持ち味を存分に発揮した最高の歌唱だったが、その割にカーテンコールであまりブラヴォーが飛ばず、大喝采とならなかったのは、個人的に大変不満。
なぜだ?オマエら彼らのことを知らんのか? 知らなくても、歌声を聴けば本物中の本物であることくらい分かるだろ?
ミュンヘンだったら、きっと恒例の足踏みドンドン付きの熱狂カーテンコールになったはず。知名度の高いフォークトだけを礼賛している日本のファンは、まだまだ勉強が足りぬ。
 
この日、一番の拍手をもらっていたのは、予想通りのことだが、指揮者のペトレンコである。
ただ、私の感想は、「良かった!」「素晴らしかった!」ではなく、「こういうワーグナーに仕立て上げてきたか!」という意外性の驚きであった。
事前の予想では、歌だけでなくピット内の各パートが鮮やかに際立った、複合的かつ立体的な演奏になるだろうと睨んでいた。
ところが、意外にも全体の響きはモノトーンで簡潔。どちらかというと硬派で、かつ素朴さを湛えていた。
まさか自分の耳が、白黒調の舞台だった視覚に影響されてしまったのだろうか・・・。
もしそうでなく、これがまさにペトレンコが作ったサウンドだったとしたら、それはきっと「既存のいわゆるワーグナー的な響き」ではなく、物語、タンホイザーという役、あるいは主役フォークトの歌い方を踏まえたペトレンコ流の抑制的表現なのかもしれない。
ただし、抑制的というのは「縮こまった」という意味では決してない。静かで奥行き感のある深い感動がそこにあった。
 
演出について。
ううーーーん・・・。難しいねえ。
 
カステルッチが物語や音楽をとことん読み込み、作品の奥底に何があるのか、何が見えるのかを徹底的に探ったことはよく分かった。その過程の作業には、一定の評価を与えたいと思う。
でもねえ・・・やっぱり考え過ぎなんだな。
考えすぎて、核心として見えた物と、パッと閃いた物と、無理やりこじつけした物が、ごちゃごちゃと同居しているような気がする。
 
そのくせ、カステルッチ自身、観ている人にすべての正解を詳らかにするつもりもない。一部理解してくれればいいし、「なんだろう??」と考えを巡らせてくれればいいし、分からなくても少しでも印象に残ってくれればそれでいい。そう思っている。
厄介だねえ・・。
 
手法としては、それほど難しいことをやっているわけではない。ずばり象徴化だ。
「女性」「肉欲」「精神」「信仰」などといったテーマをシンボルに置き換える。

あくまでも私なりに断片を読み解いてみると、もっとも象徴的だったのは「矢」。矢とはすなわち「棘」である。
幕が開く前にステージに貼られた幕に一つの矢が刺さっていたが、あれは棘であり、要するに精神的な解放を許されないタンホイザーの痛みである。
序曲の演奏中に半裸の女性たちが目や耳を的にして矢を放っていたが、愛欲に耽っていても決して満足できないタンホイザーの心中の苦しみなのだ。むしろ愛欲に耽れば耽るほど、刺さった棘の痛みが襲ってくる。
 
さらに矢とは、撃ち放つことで時空を飛び越えていくベクトルである。
生きている人間は、心の拠り所を求めて彷徨い、時に苦しむが、心の救い、精神の行き着く所、向かう果ては結局のところ、死。その死でさえ、何万年という時空の前では所詮無に等しいという悟りなのである。
これは「死んだ後は、神の元で許され、天国に行く」という西欧のキリスト教の観念に対するアンチテーゼでもある。
だとすれば、この作品の最大のテーマ「タンホイザーは救われたのか??」の答えは、自ずと一つに導かれよう。
 
・・・と、一応自分なりに思いついたことを書いてみたが・・・。
これほどの哲学をオペラの上演で展開する必要がいったいどこにあるのだろうか、ということだ。
この哲学を語るために、有名な第三幕の「ローマ語り」の場面で、延々と死体の行く末を見せて、いったい何になるというのだろうか。
 
タンホイザーは自らの悔いについて死をもって償い、その魂はエリーザベトの犠牲によって救われ、奇跡が起こる。
結局それでいいじゃねえかよと思うわけだ。だって、音楽がそうなっているんだから。