クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2018/7/16 プッチーニ 三部作

2018年7月16日   バイエルン州立歌劇場
プッチーニ  三部作(外套、修道女アンジェリカ、ジャンニ・スキッキ)
演出  ロッテ・デ・ビア
外套:ヴォルフガング・コッホ(ミケーレ)、イ・ヨンフン(ルイージ)、エヴァ・マリア・ウェストブルック(ジョルジェッタ)、クラウディア・マーンケ(フルゴーラ)  他
修道女アンジェリカ:エルモネラ・ヤオ(アンジェリカ)、ミヒャエラ・シュスター(公爵夫人)、クラウディア・マーンケ(修道院長)   他
ジャンニ・スキッキ:アンブロージョ・マエストゥッリ(ジャンニ・スキッキ)、ローザ・フェオーラ(ラウレッタ)、ミヒャエラ・シュスター(ツィータ)、パヴォル・ブレスリク(リヌッツィオ)   他
 
 
昨年12月にプレミエとなり、評判を呼んだ公演のフェスティバル再演。映像はオンデマンド配信されたので、ご覧になった方もいると思う。
そしてこの三部作は、今年、初演から100年の記念年。単独曲ではなく三部作としてはなかなか上演されないのに、9月にまた日本(二期会)で鑑賞できるのは、決して偶然ではない。
 
手堅い盤石の歌手陣。他を霞ませるようなスーパースターはいないが、どの歌手も皆粒揃いの一級品。レベルが超高い。
こういう錚々たるメンバーをこれだけの人数揃えられるバイエルン、さすがとしか言いようがない。日本の某歌劇場だと、このうちせいぜい一人二人呼べるかどうか。劇場の力と格の差を見せつけられる。羨ましい。
 
一際ブラヴォーの喝采が多かったのがアンジェリカ役のエルモネラ・ヤホだった。
歌が素晴らしかったというより、渾身の感情表現にみんなグッと来た感じではないか。役に完全になりきったその姿、迫真の演技に観客は息を呑んだ。そこにプッチーニの神々しい音楽が寄り添う。心が揺さぶられないわけがない。
 
役になりきっていたのは、実は彼女だけではない。
ウェストブルックも、マエストゥッリも、どう見ても役者。彼らは、歌っているというより、演じている。演じているのに音楽が響く。これぞオペラ歌手の究極の至芸。
 
ペトレンコも、おんなじ言葉になってしまうが、さすがとしか言いようがない。
12月の初演の際には、相当稽古を付けたことと思う。だが、おそらく今回の再演では、ほぼぶっつけ本番だろう。(レパートリーシステムとは、そういうものらしい)
それなのに、あちこちに周到に盛り込んだ仕掛けが、次から次へと息を吹き返して輝きを放っている。鮮度たっぷり、色褪せた感が皆無。
つまり、この人の才能には、再現力のきらめきも含まれているってこと。タクトに一貫性があり、高いレベルでキープして、決してぶれないということ。
 
演出について。
まるでトンネルのような、あるいは時空を超越する通り道のような舞台装置。物語が劇的に展開する場面では、トンネルの一部が時計の針のように大きく回転するのが、圧巻。小道具は変わるが、基本的に三作とも同じセットで進行させている。
 
なかなか斬新そうに見えるが、私に言わせると、そこでやっていたことは実はそれほど大したことはない。
なぜか。
コンセプトが見え見えだから。
 
さてここで、9月の二期会公演で三部作を演出するD・ミキエレット氏が語ったプラン説明を紹介したい。(二期会の機関紙「Opera」より、演出家ミキエレットからのメッセージを抜粋)
 
「今回の私の解釈では、三つの違った性格の演目を、ドラマトゥルギー的にも、ビジュアル的にも、一つのストーリーに感じられるようにコンセプトしました。」
「外套の女主人公ジョルジェッタと二番目の作品の主人公、修道女アンジェリカには、息子を失った悲しみに打ちひしがれているという共通の状況が与えられています。」
 
ミュンヘンのロッテ・デ・ビア演出のコンセプトは、まったく別人のミキエレットのこれらの説明で、言い表される。おそらくロッテ・デ・ビアにインタビューすると、まったく同じ言葉が発せされると思う。
 
最近、「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」の公演、舞台装置が同じだったり、一つの連続した物語になってたりする演出、やたら多くない??
 
つまり、こうした異なる作品を並べて上演するにあたり、演出の視点、スタート地点がまったく同じなのだ。
ここに現代演出がいかにも陥りがちな潮流、流行りが見て取れる。
 
独創的な手法を展開しているように見えても、現代的な解釈を注入しているように見えても、アイデアが重なってしまうのはなぜか。
それは、どいつもこいつも同じ視座に立って探求をしているから。
統一性を感じるから統一させるのではなく、一見統一性が見当たらない物から無理やり統一性を見つけ出そうとする。だからこうなる。
そうすることで新たな可能性が生まれ、独創性が出ると演出家は思い込んでいるが、それが潮流や流行りにハマると気づいていないから、単なる自己満足に陥り、観客からは「ははーん。またそれね。」と見透かされる。
 
私は目からウロコの発見を呼び起こしてくれる現代演出は結構好きだが、別に無理する必要なんかないんじゃないの、と思う。無理やりこじつけされるくらいなら、普通でいいんじゃないかと思うけどね。