2023年6月17日 NHK交響楽団 C定期演奏会 NHKホール
指揮 ジャナンドレア・ノセダ
ショスタコーヴィチ 交響曲第8番
ショスタコーヴィチの交響曲7番と8番は、第二次世界大戦中に作曲されたということで、これらを「戦争交響曲」と呼ぶ人もいる。特に、今回演奏された交響曲8番は、重苦しい緊迫感と陰鬱さが全体を覆い、最後は戦争犠牲者への弔いを祈るかのように終わる。
N響の定期でこの作品を演奏することが決まった時点では、もしかしたらまだロシアのウクライナ侵攻が始まっていなかったかもしれないが、実際に今、戦争のさなかにあってのこの曲の演奏ということで、指揮者ノセダの胸中は果たしていかばかりであったのだろう。ノセダは、以前にマリインスキー歌劇場の首席客演指揮者だったという経歴を持つ。一時期、ロシアと繋がりがあったのだ。
聴き手であるこちら側が、そうした背景を元に反戦や鎮魂を掲げるかのようなアプローチをするのかと勝手に邪推するが、いざ演奏を聴いてみると、ノセダの音楽作りは極めてクールに作品そのものに集中しているかのように見える。聴こえてくるのは、反ナチズムでも体制批判でも戦争の悲惨さでもなく、スコアの構成であり、楽想の表現力なのである。
N響が見事な演奏能力でこれに応えている。しかし、その精巧さはある意味冷たく、客観的、人工的である。
それゆえ、狂騒凶暴のごとく鳴り響く場面でも、あたかもマックスが定められているかのように収められ、決して踏み外さないまとまった仕上がりとなっていた。
これは実に興味深い事象だ。
なぜなら、ジャナンドレア・ノセダは、情感の露出を惜しげもなく繰り出し、必要とあらば荒々しいタクトで煽り立て、旋風によって枠組みを軽々と乗り越えることをやってのける指揮者だからだ。少なくとも、私はそう見ていた。
もしかしたら、このことこそがまさに、ノセダのこの演奏、この作品に対する胸中の思いなのではあるまいか。
政治的メッセージを込めず、芸術家としての原点に立つ。音楽家としてやるべきことに集中する。演奏する側ではなく、聴衆の側に作品の真価を受け止めてもらう。
こうしたことに気が付いた時、演奏とは別の部分で、この指揮者の懐の深さを感じ入り、脱帽した。