指揮 ジャナンドレア・ノセダ
アレクサンダー・ガヴリリュク(ピアノ)
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番
一曲目のフォーレ。しっとりとした繊細な音楽が心に染み入った。ひそやかで、どこか寂しげで、それでいながら安らかな平穏に佇んでいるかのような。
もちろん曲がそういう音楽だからそのように感じたというのもあるかもしれない。一方で、指揮者ノセダの手のひらに包み込むような柔らかいタクトが、そういう音楽を紡いだと言えなくもない。
本来、音楽にのめり込み、音楽と同化し、内に秘められた感情を捉えて、そこからドラマを創り出していくのがノセダ流であり、この指揮者の真骨頂である。
ところがフォーレでは、音楽の中に切り込んでいくのではなく、そっとふたを開けるかのような、少し距離を置いたような立ち位置が印象的だった。
オペラと管弦楽曲とではアプローチが異なるのは当然かもしれないが、まるで「自分はこういう音楽の作り方もできるんだよ」とでも言っているかのようだった。新たな発見でもあり、ちょっぴり意外な一面でもあった。
意外な一面を見たのは、メインのベト5もそう。
大向うに見得を切るかのような音の伸ばし(フェルマータ)が潔くカットされ、立ち止まらずに突進していくスピード感。この曲の既成概念を突き破るかのような鮮やかな旋風。いつものジャジャジャジャーンじゃなくて不意を突かれ、目を丸くする聴衆。
ここでもノセダは距離を取って、音楽を遠くから見つめたような気がする。ドイツの系統や流派に属さないイタリア人指揮者が、風潮から一歩離れてスコアを研究した結果がこの演奏だった。ノセダなりのやり方だったと思うが、そうすることであまたの巨匠の手によってまみれていた垢はきれいに削ぎ落ちた。好みの問題は別として、それは見事だったし、大成功だったと思う。私自身は、このように新たな方向性を見出してくれる指揮者はいつだって大歓迎だ。
プロこのコンチェルトは、ガヴリュリクの演奏が快哉を叫びたくなるほどの名演。
技術は完璧だが、技術だけで押し通すのではなく、作品と対峙し、作品を浮かび上がらせるような演奏を繰り広げていたことに大いに感心した。おそらく聴いていた多くの方が、この曲の素晴らしさ、魅力を再発見したのではなかろうか。
そういう姿勢をしっかり貫くソリストだけが生き残り、やがて巨匠の道を歩んでいく。
私はガヴリリュクにその片鱗、可能性があるような気がした。なので、これからも目を離さず、見守っていくこととしたい。