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2022/12/14 都響

2022年12月14日   東京都交響楽団   東京芸術劇場
指揮  エリアフ・インバル
ウェーベルン   管弦楽のための6つの小品
ブルックナー  交響曲第4番 ロマンティック


初めてブルックナー4番の初稿版を聴いた時の衝撃といったら無かった。
と言っても、つい最近の話、今年6月、ケルン・ギュルツェニヒ管の来日公演だった。それまで、初稿版というのがあるということを知ってはいたものの、実際には聴いたことがなかったので、とにかくびっくり仰天、腰を抜かした。なんじゃこりゃ、全然違うじゃんか、と。

その後、私は初稿版のCDを入手。何度も聴いてお勉強したので、今回の都響ではさすがにそうした驚きはもう無い。新鮮味も失せた。

でも、改めて思った。現在演奏されることが多い改訂版(第2稿、あるいは原典版)は、見事に改善が施され、誰もが名曲と認める作品に仕上がったものだ、と。
「改訂版の方が耳に馴染んでいるから」ということもあるかもしれないが、決してそれだけではない。単純比較で、改訂版の方が圧倒的に良い。自分の好みの問題かもしれないが、作品の質は著しく向上していると思う。

ま、そりゃそうだろう。
作曲家は出来栄えに満足せず、「どうもイマイチだ。改善すべきポイントがある。」と認識し、修正してより良い作品に仕上げようとして、改訂に力を注いだわけだから。

だとしたら、初稿版を演奏する意義って、一体何なのだろうか。
作曲家が良かれと思って改良し出版したものを、後年の演奏家が「実は、当初はコレでした。ヤバ(笑)」みたいにばらしてしまうわけである。
いいのかよ、そんなことして。

前回インバルが来日したのは2021年1月で、その時彼は同じくブルックナーの3番を演奏したが、なんとこの時もやはり初稿版を採用したのだ。
つまり、今回の4番で彼が初稿版を採用したのは、たまたまでも結果論でもなく、明らかに最初から意図、狙いがあってのことだったと思う。

じゃあ、その意図、狙いは何かといえば、それは実際の演奏を聴いて何となく分かった。
二つ見つけた。
一つは、インバルは初稿版の中にも決して侮れない聴くべきポイントが潜んでいると知っていて、そこを正々堂々と明らかにすべきと心得ていること。
二つ目は、確かに初稿版には欠陥とまではいかなくともウィークポイントが多々存在しているが、それが改良によってどのように変化したのかを詳らかにすることで、作曲家と作品の両方の成長過程を発見できる、としていること。

そこらへん、インバルの確信は実に揺るぎない。
例えば、ほんの10日前、F・ルイージN響ブルックナー2番(なぜかこれも初稿版)を演奏したが、ルイージらしい鋭い切り口によって、かえって初期作品ならではの冗長さや野暮ったさ、作曲技法の甘さまで浮き彫りにしてしまうという、思わぬ結果が出てしまった。(それがルイージにとって「裏目に出た」と言っていいものなのかは分からないが。)

これに対しインバルの場合、そうした事態はもう最初から織り込み済みである。野暮ったさも作曲技法の甘さも、「だから何だ!」「これでも喰らえ!」の如く、堂々と開き直っている。その上で、それを補って余りある魅力の発掘に最大限のスポットを当てているのである。
公演の後、SNS上で多くの聴衆から「初稿版いいね」「意外と面白いね」という感想がいくつも見られたのは、インバルがまさに狙った演奏効果の賜物というわけだ。

ただ、私としては、やっぱり改訂版(第2稿、原典版)を聴きたかったというのが偽らざる気持ちである。インバルの意図は狙いは自分なりに理解できたし、都響の演奏だって力演で素晴らしかった。にも関わらず、じゃあ感動したかといえば、答えはノーなのだ。
(インバルと都響のロマンティック改訂版は、2015年に演奏されているとのことだが、残念ながら私は聴き逃している。)

もっとも、初稿版を紹介することで、通常演奏されることが多い版の良さを聴衆に再認識させようという意図まで含まれているというのなら、もはや何にも言えねえが・・。