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2019/3/17 都響

2019年3月17日   東京都交響楽団   サントリーホール
ブルックナー   交響曲第8番
 
 
壮絶な演奏、そしてピラミッドのような巨大な演奏。名演に導いた指揮者インバルの全身からは炎が噴き出していて、その様はまるで鬼、あるいは阿修羅のようだった。
 
私はこういう演奏が聴きたかったのだ。これぞまさしく私が望んでいたブル8なのだ。
超速テンポの好き嫌いは若干あるが、そういうことを超越した強力な燃焼度と構築性に、私は平伏し、跪くのだ。
 
昨年5月にアムステルダムで聴いたコンセルトヘボウのブル8の不完全燃焼は、いったい何だったのかと、改めて思う。
オケもホールも申し分ないはずだったのに物足りなさいっぱいだったが、このインバルの演奏を聴くと、ブルックナーはやっぱり指揮者なんだと思う。オケでもホールでもない。
つまり、インバルは、この偉大な作品を振る資格がある指揮者ということだ。
 
そのインバルのブルックナーの特性について、もう少し感じたことを語ってみたい。
 
ブルックナー信者は、作品や演奏から立ち込める精神性について語ることが多い。
あくまでも私個人が感じたことだが、インバルの場合、そうした観念的な印象をもたらさない。もっと視覚的であり、外形的。強固でそびえ立つような建物の建造を目の当たりにしているようである。
なぜかというと、インバルのタクトは、あたかも巨大な外枠を提示しているようであり、その枠にハマるようにMAXの演奏を要求していると感じるからだ。
少しでも枠に満たない基準の演奏なら、「もっと踏み込め」と猛烈な檄が飛ぶ。だから、オーケストラ奏者は、指揮者を信じてアクセルをいっぱいに踏み込む。
 
ただし、この指揮者はただ「音を大きくしろ」と言っているわけではない。音の大きさではなく、「凝縮された音楽の塊を作れ」と訴えている。私はそう感じる。宇宙的な広がりではなく、建造物の強固さが聴こえてくるのは、そのせいだと思う。
 
このアプローチは、これまでの数多の名演を繰り広げたマーラーショスタコーヴィチの演奏と共通する。
規模の大きい作品に対し、その規模に応じた構築性を断固として求める。
で、その規模が大きい作品であればあるほど、威力を発揮する。
これぞ、インバルのインバルたる所以だ。
 
それにしても、これほどまでに圧倒的な演奏を生み出し、日本で絶大な人気を誇る指揮者だというのに、世界レベルで必ずしも屈指の巨匠と認められていないのは、いったいなぜなのだろう。
それだけ都響との結び付きがスペシャルだからなのか。
それとも、規模の大きい作品でしか威力を発揮しない指揮者とみなされているからか・・・。