2021年10月24日 東京交響楽団 ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮 ジョナサン・ノット
合唱 新国立劇場合唱団
三宅理恵(ソプラノ)、小泉詠子(メゾ・ソプラノ)、櫻田亮(テノール)、ニール・デイヴィス(バス・バリトン)
デュティユー 交響曲第1番
モーツァルト レクイエム
(リゲティ ルクス・エテルナ)
ジョナサン・ノット。この人の指揮者としての才能は疑うべくもない。スコアの解析力、表現の多彩さ、オーケストラの統率力、どれも一級品。頭脳明晰にしてインテリジェント。いかにもIQが高そうだ。
彼は、スコアという二次元の設計図を三次元化、立体化させ、思いどおりに組み立てることが出来る。
で、そうやって構築させた音響に、更に効果的に着色したり、見栄え良く形を整えたり、見えない部分や聴こえない部分を際立たせたりすることも出来る。
要するに、自由自在、お手の物なのだ。
何でも出来ちゃうので、作品が複雑であればあるほど、ますます完成度に磨きがかかる。発想力があるし、知的好奇心も旺盛なので、プログラムに関してもアイデアが降って湧くように出てくる。
毎回「うーん」と唸ってしまうあの凝ったプログラムは、こうして生み出される。
現代音楽と古典との融合、一見水と油のように見える作品の間に秘められた、有機的連動と統一性の発掘。
すべてのプログラムの並びと配置は、ノットの先見の明による必然の帰結というわけだ。
しかし、こうしたものは、時にマニアックに陥り、時に聡明さが仇となって「ひけらかし」のように映る危険性が潜む。
挙げ句、付いていけないお客さん、結構いるんじゃないだろうか。
かく言う私も、「付いていけない」わけではないが、常に警戒している。現代音楽、嫌いなんでね。
デュティユーはいい。彼の作品は好きだ。交響曲第1番はなかなか演奏されないし、これをやってくれたのは嬉しい。
モツレクもいい。天才作曲家の辞世の作の調べに、様々な思いが込められよう。
だが、そのモツレクの曲の途中に突然リゲティを挿入された瞬間、私は嫌悪感を催し、いたたまれなくなる。
いかにもノットらしいと言えばそれまでだし、上に書いたように、ノットにしてみればすべてが必然。どうしようもないわけであるが・・・ノットの必然は私にとって当惑でしかない。
たぶんノットにしてみれば、「元々、モーツァルト絶筆の後に他人(ジュスマイヤー)が補完した物なんだから、そこにリゲティ入れたって同じじゃんか」みたいな感覚なんだろうな。
やれやれ、こんなにも優秀な指揮者なのに、こんなにもいい演奏を聴かせてくれるのに、私はこれからも注意深く地雷を避けながら、行くべき公演であるか選別することになる。