クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/1/19 都響

2021年1月19日   東京都交響楽団   東京芸術劇場
指揮   エリアフ・インバル
ベートーヴェン   交響曲第6番「田園」、交響曲第7番


こちらがインバルに「やってほしい」と求めているもの。
それは、マーラーとかブルックナーとかショスタコーヴィチとか、要するにデカイ曲。
なので、彼が振る古典作品をほとんど聴いたことが無い。
ベートーヴェンで調べてみたら、これまでにたったの二曲だけだった。ピアノ協奏曲第4番と交響曲第8番。当然メインプログラムではない。
で、どんな演奏だったか当然覚えていない(笑)。

でも、こうして交響曲第6番、第7番という煌めくようなプログラムを用意されると、「ああ、これは聴きたい!」と思うし、ものすごく期待してしまう。デカイ曲のアプローチとは一味違う、きっとインバルらしいこだわりの演奏を聴けるに違いない。

期待に違わぬ素晴らしい演奏。そして、予想どおり、インバルらしいこだわりを感じさせる演奏。

マーラーなどの演奏で見せつける、巨大な神殿の建造はやらない。弦楽器にはヴィブラートを極力抑制させ、レガート奏法やボウイングの統制を徹底化させて、古典の様式に則ろうとしている。
一方で、いわゆる純然たる古楽ピリオド奏法とは一線を画し、木管楽器群の旋律におおらかで自由な抑揚を促すなどして、ロマン派らしい開放的な音楽を構築してみせた。

これぞインバルのベートーヴェン。インバルの考え、解釈に導かれた見事な仕上がり。

限られたリハーサル時間の制約下でこのレベルに到達させるには、指揮者の意図を即座に汲み取るオーケストラの高度な順応能力が必要だが、その点に関して都響は万全完璧だった。

彼らはインバルが求める音楽を十分に分かっている。
インバルと都響には、長年にわたって築き上げてきた強固な信頼関係がある。
100%の情熱をもって音楽に取り組むインバルの姿勢に対し、心から尊敬している。
そして、現下の困難な状況の中で、二週間の隔離待機も受け入れて来日してくれたことを、意気に感じている。

この日の素晴らしい演奏は、こうしたことがすべて詰まった必然の結果だったのだ。

2021/1/17 バッハ・コレギウム・ジャパン

2021年1月17日   バッハ・コレギウム・ジャパン   東京オペラシティコンサートホール
指揮  鈴木雅明
中江早希(ソプラノ)、清水華澄(アルト)、西村悟(テノール)、加來徹(バス)
メンデルスゾーン  オラトリオ「エリアス」


特大ホームラン、ぶっ飛び級の名演であった。
外来ではなく国内公演に限れば、これほどまでに傑出し、自身において満足感を得られた演奏というのは、近年においてほとんど記憶がない。まさに白眉。感動のあまり、打ち震えたほどである。

名演というのは、3つの重要な要件が揃わないと誕生しない。
まず、演奏の技術レベルが極めて高いこと。
次に、作品に、感動を引き起こすポテンシャルや魅力が十分に備わっていること。
そして、指揮者ら演奏家の卓越した解釈によって、そのポテンシャルや魅力が存分に引き出されること。

今回は、これら3つの要件が完璧に整った、第一級の公演ということだ。


まず、作品について。
「エリアス」、あるいは「エリア」、「エリヤ」とも呼ばれるこの作品、いったいどれくらいの人が知っていて、愛聴しているのだろう。
もちろん熱心なクラシックファンやマニアなら当然レパートリーに入っているかもしれないが、一般的にはあまり認知されていないのではなかろうか。オラトリオなら、ヘンデルの「メサイア」、ハイドンの「天地創造」などが有名だが、人気度ではこれらに比べて劣るだろう。

私は声を大にして言いたい。
「エリア」(※)は、とんでもない名曲だ。
メンデルスゾーン作品の最高傑作というだけでなく、個人的には「ミサ・ソレ」や「マタイ」と同列にして語ってもいいのではないかとさえ思っている。
(※メンデルスゾーンのオリジナルが「エリアス」なので、BCJもこの呼び名を採用したようだが、私自身はずっと「エリア」と呼んできた。)

私がこの作品に開眼したのは、1986年10月のN響定期1000回記念特別演奏会(サヴァリッシュ指揮)。それまでこの曲を知らなかったが、この公演を聴いて、「メンデルスゾーンは、こんなにもすごい曲を作っていたんだ!」と感嘆したのだ。

おそらく、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏を聴いて、34年前の私とまったく同じ思いをした人はきっと多かったに違いない。
今は多くの人が自ら情報発信するツールを持っている時代。今回、「メンデルスゾーンのエリアス、初めて聴いたけど、この曲、めっちゃイイじゃないか!」というメッセージがたくさん発信されることを願いたい。


次に演奏について。
BCJの合奏、それからキャストが全員変更となった日本人ソロ歌手の歌唱、いずれも実力を存分に発揮した熱演だった。

だが、最も讃えられるべきは、やはり指揮者の鈴木さんであろう。
オーケストラに対してシンフォニックな響きを追求しながら、合唱とソロに対しては劇的な心情表現を植え付け、なおかつ全体として宗教的な敬虔さを纏わせている。
これらの絶妙なバランス配合が、力強い訴求力、推進力に転嫁され、聴き手に圧倒的な充足感をもたらしたのであった。

ベースとなっていたのは、いかにも鈴木さんとBCJのコンビらしいバロック的アプローチ。演奏の中に、バッハのマタイ、ヨハネの受難曲からの胎動と脈流が透けて見える。「バッハとメンデルスゾーンは、こうして繋がっているのだ」とはっきり認識させる説得力。
ロマン派に位置する作品の演奏でこれが出来るのは、日本において鈴木さんしかいない。
いや、もしかしたら、世界においても・・・。

この稀少な才能と実力が日本の中にあることを、我々はもっともっと誇るべきである。

2021/1/13 都響

2021年1月13日   東京都交響楽団   サントリーホール
指揮  エリアフ・インバル
ワーグナー  楽劇トリスタンとイゾルデより 前奏曲と愛の死
ブルックナー  交響曲第3番


今回のインバルの来日は、嬉しいニュースだった。コロナ渦で閉塞感が漂う中、このどんよりとした雰囲気に一撃をぶちかますような怒涛の演奏をやってくれる指揮者といったら、もう誰がなんと言おうとインバル様なのだ。

元々のプログラムは、ショスタコーヴィチ交響曲第13番だった。是非とも聴きたかった作品だったが、代わりに並べられたこの日のプログラムも絶品。インバルらしい堂々たる風格のプログラムだ。(バビ・ヤールは、来年に持ち越しとなった。)

ところで、前回ブル3を聴いたのは、2017年7月。同じく都響。ミンコフスキの指揮だったが、その会場にインバルが現れ、終演後ミンコフスキの楽屋に表敬訪問したというのだ。
インバルほどの大指揮者が別の指揮者の演奏を聴きに行くということ自体がなかなか興味深いが、それだけブルックナーに対する熱い思い入れがある、ということなのかもしれない。

そのインバルのブル3のエディションは、1873年ノヴァーク版。いわゆる「初稿版」である。一般的には「第3稿」がよく演奏され、ほぼ標準になっていると思うのだが、インバルは初稿版をレコーディングしていることもあり、こだわりがあるようだ。

私は初稿版は今回初めて聴いた。(と思う。)
正直に言って、第3稿版が自分のデフォルトになっているため、耳慣れという意味で、かなり戸惑った。全然違うと言っていい。違和感さえ覚えた。

だが、インバルの豪速球の演奏が、そんな戸惑いをぶっ飛ばす。圧倒的な説得力。まるで、「こっちが本物だ」と言わんばかり。

この圧倒的な説得力こそ、インバルの真骨頂だ。

一方で、音楽が強引で力任せかと言えば、決してそんなことはない。
インバルの演奏といえば巨大な造形の構築が持ち味で、そのためにオーケストラを豪快に煽っているかのようなイメージがある。
でも、タクトを眺めていると、案外シンプルに「こうだ!」とフォルムを指し示すことに徹しているのである。その形状が大きく、かつ非常に明確であるため、スケール感が余計に際立って聞こえるというわけだ。


それにしても、インバルさん、本当にお元気そう。全然変わらない。年を重ねれば、たいてい円熟したり枯れてきたりするのに、相変わらずギラギラしている。すごいよな。

次回、19日(火)、平日午後2時からのマチネー公演(ベートーヴェン・プロ)も行きます。当然っしょ。

仕事? 知るか、そんなの。

新型コロナウィルスの影響7

首都圏に緊急事態宣言が発出された。

昨年4月の時は、飲食店だけでなく、スーパーやコンビニ等を除いた商業施設、映画館、劇場、遊園地などにも休業が要請され、クラシックやオペラの公演を含むイベント開催も軒並み中止に追い込まれた。
今回、同じ緊急事態宣言でありながら、飲食店の営業時間の短縮要請がメインで、イベント関係についてはあくまでも制限の要請(5000人以下もしくは収容50%以下での実施)に留まっている。外出制限も「夜8時以降の自粛」と、いかにも緩い。
果たしてこんな程度で効果が出るのか甚だ疑問だが、やはり経済を完全にストップしてしまうことに伴う甚大な影響を無視できないのであろう。政治家さんたちは、財界に支えられているからね。

公演関連で言うと、政府が「既にチケット販売が開始されている催物については開催制限を適用しない」との見解を示したことから、緊急事態宣言の実施期間中(2月7日まで)のコンサートは、概ね予定どおり開催の方向のようだ。
新国立劇場では、終演が午後8時以降になってしまう公演の開演時間の変更を模索している模様。「国立」だけに、さすがに無視できないということか。)

私が既にチケット購入済のインバル&都響、ヴァイグレ&読響、バッティストーニ&東京フィル、BCJの「エリアス」等は、そういうことで中止にならず、まずはひとまずホッとした。

感染拡大とならないように極力外出を控える期間であり、その観点から、「中止にならなくてホッとした」などという私の言い草は「危機感がない」と言われれば、確かにそのとおり。
だが、主催側は法令を順守し、ガイドラインに従い、感染対策に万全を期した上で、公演を開催するというのである。自分も、密や人との接触を回避し、マスク着用や手洗い、消毒等出来ることをしっかりやるつもり。もちろんそれでパーフェクトだとは思っていないが、自分としては、自らの行動について考え、意思を持って、会場に向かうつもりだ。


実は緊急事態宣言の前に危惧したことがあって、何かというと、昨年末に政府が発表した「外国人の新規入国の禁止」措置。
「入国後に2週間の隔離期間を受け入れる」という条件以前に、そもそも入国を禁止してしまうということなら、インバルもバッティストーニも、それからイザベル・ファウストやフランチェスコ・メーリなどのソロ演奏家たちも全部アウトじゃんか、と愕然としてしまった。

ところがなんと、これらのアーティストたちは皆、しっかりと入国を済ましていることが判明。
そうだったのか。いやー、驚いた。滑り込みセーフだったということか。

さらに驚いたのが、2月の二期会タンホイザー」公演で、予定していた指揮者の来日不能により、ピンチヒッター、S・ヴァイグレというニュース。
ということは、隔離期間も含め、かれこれ3か月も日本に滞在ということなのね。1年の4分の1を日本でお過ごしなのね。

いくら「日本はいい国だ」とか言っても、さすがに3か月となると、大変だよなあ。言葉の問題も大きいだろうし。「日本食はおいしい」とか言ったって、ドイツ人なんだから、さすがに飽きて、ドイツの食事がしたいと思うよなあ。

よくまあ、お引き受けくださいました。

あのー、もうここまで来たらついでに・・4月の東京・春・音楽祭の「パルジファル」、もしヤノフスキがアウトだったら、いかがでございましょう(笑)。
何なら3月の新国立劇場ワルキューレ」も・・・あ、さすがにこれは飯守先生に怒られちゃいますな(笑)。

2021/1/7 樫本大進 キリル・ゲルシュタイン デュオリサイタル

2021年1月7日   樫本大進 キリル・ゲルシュタイン デュオリサイタル   ミューザ川崎シンフォニーホール
プロコフィエフ   5つのメロディ
フランク   ヴァイオリン・ソナタ
武満徹   妖精の距離
ベートーヴェン   ヴァイオリン・ソナタ第9番 クロイツェル


まず、本公演の前に、二期会主催の「サムソンとデリラ」コンサート形式上演に行っているのだが、鑑賞記事は省略させていただくことにした。理由は、ネガティブな感想を書き連ねるのが嫌だから。すみません。

そういうことで、樫本大進クンである。言わずとしれたベルリン・フィルの第一コンサートマスターである。ドイツ在住なので、外国人と同様に2週間の隔離を受け入れての来日だ。

隔離期間と国内演奏ツアーを合わせると1か月くらいの滞在になるはず。その間、肝心のベルリン・フィルのお仕事はどうなのか、と心配してしまうが、ドイツも現在ロックダウンの真っ最中。日本では感染対策の徹底を前提に演奏会が行われているが、ドイツでは軒並みキャンセル(※)という状況なので、それならば日本でお仕事をした方がまだましという判断が働いているのかもしれない。
(※ ベルリン・フィルに関しては、恒例の12月31日のシルベスター・コンサートのほか、いくつかのコンサートも無観客によるライブ配信演奏を行っているので、まったく仕事がないというわけではない模様。)


さて、私は何を隠そう、大進クンの演奏、これまで室内楽やコンチェルトのソロで何度も聴いているが、リサイタルは本公演が初めて。じっくりと集中して彼のヴァイオリンに耳を傾けたわけだが、いやはや、さすがと言いましょうか、本格的な演奏に思わず唸ってしまった。

音色はブリリアントであり、演奏からは大胆さ、実直さ、ひたむきさが伝わってくる。ピアニストとの呼吸もばっちりで、そこらへんは日ごろからアンサンブルを統率する責務を担っている役割が出ている感じがした。

世界最高のオーケストラのコンマスの実力は伊達ではないわけだが、というよりも、「コンサートマスターのソロ活動ではなく、コンマス稼業もやっている優秀なソロ・ヴァイオリニスト」と言い表したいくらいの見事さなわけである。

逆に言えば、「こんな優秀なソロ・ヴァイオリニストを団員に抱えているベルリン・フィル、恐るべし」と言い換えることも可能なわけであるが。


ちなみにちょっと言っておくが、私自身は彼の活躍について「日本人として素晴らしい」、「日本人として誇らしい」などというエンパシーはまったくありません。日本人はそういうのが大好きだけどね(笑)。

2021/1/3 都響(東京文化会館 響の森シリーズ)

2021年1月3日  東京都交響楽団
東京文化会館 響の森 Vol.47 ニューイヤーコンサート
指揮  飯守泰次郎
小川典子(ピアノ)
ベートーヴェン  ピアノ協奏曲第5番 皇帝
ワーグナー  楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、歌劇「タンホイザー」序曲


ネット情報によると、指揮者の飯守さんは昨年末に病気で入院し、緊急手術をしたそうだ。
関係者やファンから心配の声が上がっていたが、こうして無事に指揮台に立った。まずはめでたしめでたし。
ただし、ステージに登場する際、歩き方に少々弱々しさが見受けられた。病み上がりなのだから、無理もない。しかも御年80歳。お身体、大事になさってほしい。
もっとも指揮者である以上、オーケストラに向き合い、指揮台に立つことが、きっとどんな良薬よりも効果がある、ということかも・・・。

幸いタクトには推進力があった。メインのワーグナーは御大の得意中の得意ということもあって、スケールの大きな音楽が展開された。私を含め、多くの聴衆が満足のいく演奏となったのではないか。

定期演奏会でもないし、おそらくそれほど多くのリハーサル時間は取れなかったはず。
でも、こういう時だからこそ、経験というか、成し遂げてきた実績というか、飯守さんの指揮者としての生き様がモノを言うのである。
ついでにはっきり言っちゃえば、もう指揮台に立つだけでいい。デンと構えて、睨みを利かせて、「フンッ!」と振ればいい。風格を見せつければいい。
これぞ巨匠の特権。飯守さんも、いよいよそういう指揮者になってきたというわけだ。


ところで、ふと思った。
コンサートでオペラの序曲や前奏曲を振る時、指揮者はその音楽を作り上げるにあたり、オペラ全体の構成や流れ、物語の中身というのを考慮するのであろうか。
それとも、あくまでもオペラの中身とは関係なく、単独曲として取り扱うのであろうか。

例えば、今回のプログラムの「マイスタージンガー」なんか、オペラの劇中に見られる喜劇的要素やお祭り要素のモチーフが前奏曲の中に盛り込まれているわけだが、これらを浮かび上がらせ、聴き手にオペラの物語を想起させるのか。それとも、喜劇作品のイメージを白紙にし、いかにもこの曲らしい勇壮な演奏に向かうのか。
これ、演奏上の一つのポイントのような気がするのだ。

ちなみに今回の演奏を聴いた私の印象では、後者のアプローチのように感じたが・・・果たしてどうだろう。


前半のコンチェルトは、ソリストの個性が際立った秀演。
小川さんのピアニズムは、とても精巧。スコアの読み込みがしっかりしていて、綿密な設計図のもとに構築され、隙がないのだ。それ故、説得力があって、圧倒される。とても良かったです。

エフゲニー・ムラヴィンスキー

昨年末、と言っても3日前のことだが、マイ・コンピューターに問題が生じたため、我がIT顧問の親友Kクンの力を借りることとなり、自宅に呼んで対処をお願いした。
彼はファンというほどではないが、クラシックに多少の関心と知識は持っているので、これまでにも何度かオペラに誘ったり、あるいは旅行を共にして公演に足を運んだりしたことがある。

そんな彼が、私が12月20日にアップしたブログ記事『ショスタコーヴィチ交響曲第5番』を見てくれたらしく、「自分もかつてムラヴィンスキーの5番の録音を聴いたことがあって、確かにあれは凄かった!」と話すのであった。これはなかなか驚いた。
で、「せっかくだから、何か音楽を聴かせてよ!」と言うので、「よっしゃ!」とばかり、ショスタコ5番を始め、チャイコフスキーの悲愴、グリンカの「ルスランとリュドミラ」など、ムラヴィンスキー指揮の演奏をCDやYou Tubeから選曲し、たっぷり鑑賞した。

久しぶりにこれらを聴いたのだが、改めて感心した。
ムラヴィンスキーが指揮するレニングラード・フィルの演奏って、ホント凄い!
凄いってことを当然知っているのに、それでもやっぱり凄い。

何が凄いって、とにかくレニングラード・フィルのサウンドの威力である。圧倒的なパワー。
あの当時、レニングラード・フィルは、間違いなく世界屈指のオーケストラだったよな・・。

で、その圧倒的なパワーの原動力となっているのが、オーケストラの驚異的な統制だ。全員が一糸乱れずにガッガッガッと鳴らすのだから、そりゃあハンパない。

Kくんも「ムラヴィンスキーの顔が怖いんだよ。あんな怖い顔に睨まれながら演奏したら、そうなるわ。」などともっともらしいことを言う。

顔のせいかは分からないが(確かに一理ある)、いずれにしてもムラヴィンスキーが50年をかけて築いた入魂の産物であることは、間違いないだろう。


何だか私も久しぶりにムラヴィンスキーにハマってしまい、Kくんが帰宅したその後もずっと、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの演奏を聴き続けている。
私の年越しの音楽はショスタコの8番と10番だったし、お正月の年始めビデオ鑑賞は、随分と昔に衛星放送から録画したムラヴィンスキーのドキュメンタリー映像(2003年にIMG ArtistsとBBCが制作したもの)であった。

このドキュメンタリー映像、タイトルは「ムラヴィンスキーの肖像」というものだが、かつてムラヴィンスキーの下で演奏した旧レニングラード・フィルの奏者たちの談話がたっぷりと盛り込まれていて、とても興味深かった。ムラヴィンスキーが作り上げた圧倒的なサウンドの秘密が、そこに明らかにされているのだ。

「彼(ムラヴィン)は、どんなに細かいことも決して見逃さなかった。目指していたのは常に完璧さであった。」
「オーケストラ奏者がもし練習に遅刻でもしてきたら、クビもしくは2週間の謹慎。」
「綿密なリハーサルは、奏者にとってはハードな肉体労働そのもの。」
「レコーディングのため同じ箇所を10回から15回繰り返し演奏したところで、録音技師が『あとは我々がうまく調整しますから、もう十分ですよ』と言ったが、彼は『いや、まったく不十分だ』と言って取り合わなかった。」
「初めてムラヴィンの下で演奏することになった時、他の団員がどうやって演奏したらいいか、教えてくれた。『早くても遅くてもだめ。音が小さくても大きくてもだめ。上手でも下手でもだめ。ただ、みんなと同じように弾くのだ』と。」

さらに衝撃的なエピソード。
リハーサルでこれ以上ないくらい完璧に仕上がった時、彼はその本番ステージをキャンセルしたのだという。

その理由は『本番では、このリハーサル以上にどうやっても演奏することが出来ないから。』

ま・じ・か!! そんなことが許されるのか!? いや許されんだろ!?
なんだかクライバーみたいなヤツ(笑)。

そもそもムラヴィンスキーはこんなことも言っていたらしい。
『音楽は神のために演奏されるのであって、人々のために演奏されるのではない。本来ならホールに客を入れる必要はないが、慣習だから仕方なくそうしている。』

いやー・・・参りました。

つまり、ムラヴィンスキーにとって、指揮をするということは神に仕えることであり、要するに職業ではなかったというわけか。

こうしたエピソード一つ一つが、巨匠の伝説、神話を形作っているわけだね。
こんな指揮者、もう二度と現れないんだろうね。
現れても、商業主義が蔓延る現代では、とても生きていけないだろうしな。
まさに恐竜だね。