クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

エフゲニー・ムラヴィンスキー

昨年末、と言っても3日前のことだが、マイ・コンピューターに問題が生じたため、我がIT顧問の親友Kクンの力を借りることとなり、自宅に呼んで対処をお願いした。
彼はファンというほどではないが、クラシックに多少の関心と知識は持っているので、これまでにも何度かオペラに誘ったり、あるいは旅行を共にして公演に足を運んだりしたことがある。

そんな彼が、私が12月20日にアップしたブログ記事『ショスタコーヴィチ交響曲第5番』を見てくれたらしく、「自分もかつてムラヴィンスキーの5番の録音を聴いたことがあって、確かにあれは凄かった!」と話すのであった。これはなかなか驚いた。
で、「せっかくだから、何か音楽を聴かせてよ!」と言うので、「よっしゃ!」とばかり、ショスタコ5番を始め、チャイコフスキーの悲愴、グリンカの「ルスランとリュドミラ」など、ムラヴィンスキー指揮の演奏をCDやYou Tubeから選曲し、たっぷり鑑賞した。

久しぶりにこれらを聴いたのだが、改めて感心した。
ムラヴィンスキーが指揮するレニングラード・フィルの演奏って、ホント凄い!
凄いってことを当然知っているのに、それでもやっぱり凄い。

何が凄いって、とにかくレニングラード・フィルのサウンドの威力である。圧倒的なパワー。
あの当時、レニングラード・フィルは、間違いなく世界屈指のオーケストラだったよな・・。

で、その圧倒的なパワーの原動力となっているのが、オーケストラの驚異的な統制だ。全員が一糸乱れずにガッガッガッと鳴らすのだから、そりゃあハンパない。

Kくんも「ムラヴィンスキーの顔が怖いんだよ。あんな怖い顔に睨まれながら演奏したら、そうなるわ。」などともっともらしいことを言う。

顔のせいかは分からないが(確かに一理ある)、いずれにしてもムラヴィンスキーが50年をかけて築いた入魂の産物であることは、間違いないだろう。


何だか私も久しぶりにムラヴィンスキーにハマってしまい、Kくんが帰宅したその後もずっと、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの演奏を聴き続けている。
私の年越しの音楽はショスタコの8番と10番だったし、お正月の年始めビデオ鑑賞は、随分と昔に衛星放送から録画したムラヴィンスキーのドキュメンタリー映像(2003年にIMG ArtistsとBBCが制作したもの)であった。

このドキュメンタリー映像、タイトルは「ムラヴィンスキーの肖像」というものだが、かつてムラヴィンスキーの下で演奏した旧レニングラード・フィルの奏者たちの談話がたっぷりと盛り込まれていて、とても興味深かった。ムラヴィンスキーが作り上げた圧倒的なサウンドの秘密が、そこに明らかにされているのだ。

「彼(ムラヴィン)は、どんなに細かいことも決して見逃さなかった。目指していたのは常に完璧さであった。」
「オーケストラ奏者がもし練習に遅刻でもしてきたら、クビもしくは2週間の謹慎。」
「綿密なリハーサルは、奏者にとってはハードな肉体労働そのもの。」
「レコーディングのため同じ箇所を10回から15回繰り返し演奏したところで、録音技師が『あとは我々がうまく調整しますから、もう十分ですよ』と言ったが、彼は『いや、まったく不十分だ』と言って取り合わなかった。」
「初めてムラヴィンの下で演奏することになった時、他の団員がどうやって演奏したらいいか、教えてくれた。『早くても遅くてもだめ。音が小さくても大きくてもだめ。上手でも下手でもだめ。ただ、みんなと同じように弾くのだ』と。」

さらに衝撃的なエピソード。
リハーサルでこれ以上ないくらい完璧に仕上がった時、彼はその本番ステージをキャンセルしたのだという。

その理由は『本番では、このリハーサル以上にどうやっても演奏することが出来ないから。』

ま・じ・か!! そんなことが許されるのか!? いや許されんだろ!?
なんだかクライバーみたいなヤツ(笑)。

そもそもムラヴィンスキーはこんなことも言っていたらしい。
『音楽は神のために演奏されるのであって、人々のために演奏されるのではない。本来ならホールに客を入れる必要はないが、慣習だから仕方なくそうしている。』

いやー・・・参りました。

つまり、ムラヴィンスキーにとって、指揮をするということは神に仕えることであり、要するに職業ではなかったというわけか。

こうしたエピソード一つ一つが、巨匠の伝説、神話を形作っているわけだね。
こんな指揮者、もう二度と現れないんだろうね。
現れても、商業主義が蔓延る現代では、とても生きていけないだろうしな。
まさに恐竜だね。