クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

メサイアの慣習

ヘンデルメサイア演奏をコンサート会場で聴くにあたり、謎の慣習があることをご存知か。
それは、第二部の最後、誰もが知っている有名な「ハレルヤ・コーラス」の時、「起立する」というものだ。

立って聴くんだってさ。マジかよ。

なんでもこの曲がロンドンで初演された際、当時の英国王ジョージ2世が御臨席となり、その国王がハレルヤ・コーラスを聴いて感動し、思わず立ち上がったのだとか。で、周りの聴衆もそれに続いて皆起立。
以来、これがしきたりとなって、英国発で世界に広まった、ということらしい。

私はその慣習について、豆知識として知っていたが、実際に起立して聴く人間はこれまで見たことがなかった。だから、単なる伝説、噂の類にしか考えていなかった。
といっても、ヘンデルメサイアの鑑賞体験自体がそれほど多くなく、せいぜい片手で数えられるくらいなのだが。

そしたら、私はついに目撃してしまったのだ。先日24日のバッハ・コレギウム・ジャパンメサイア公演で。起立した人間を。

その前に、開演前のホールにて、鑑賞にあたっての一般的な注意事項(録音録画禁止とか、携帯電話をオフとか、拍手は指揮者がタクトを下ろしてからとかなど)をアナウンスした際、「他のお客様の鑑賞の妨げになりますので、演奏中に立ち上がる行為はご遠慮ください」という、普段なら決して入らない呼びかけがあったことに、まずびっくりした。
注意喚起が必要なことなのか? 実際にそういうことをする奴、いるんか?

で、いたわけよ。実際に。
いやー、驚いたね。

私はP席に座っていたので、相対する客席を見渡すことが出来たのだが、ハレルヤ・コーラスになった時、1階席後方で男女二人が立ち上がった。その人たち、外国人だった。
イギリス人だったのかもしれないね。
ホール側としては、事前に「起立はしないで」とアナウンスで注意したのだから、演奏中にも関わらず気付いた係員が近くまで行き、座るように促した。

でも、お二人は堂々無視。そのまま最後まで立ち続けた。

まあそうだろう。確固たる意思を持って立ち上がったわけだろうからな。

そこらへん、自己主張、個人主義が身に染み付いている欧米人と、「右に倣え、出る杭にはなりたくない」日本人とで、明確な差が生じるのである。

とは言っても・・。

あくまでもこの件に関しては、私は「右に倣え」派だけどな・・・。

その人がどういう信念に基づいて立ったのかは知らない。
が、ここはイギリスではなく、日本である。その慣習が世界にどの程度広まっているかについても知らないが、少なくとも日本では根付いていない。

この会場に集った人の目的は、100%音楽を鑑賞するためである。演奏を楽しみにやってきたわけだ。その慣習を実行することが少なくとも純粋に聴いて楽しむ鑑賞行為に何の意味ももたらさず、むしろアナウンスされたとおり周囲の人たちへの配慮、マナーを考えれば、どうすべきか再考する必要があったのでは、と私は考える。
実際、その瞬間、真後ろに座っていた人たちは、視界を妨げられ、演奏を“見る”というライブならではの楽しみを奪われたわけだから。


もっとも、立ち上がった人に対してそうしたことを物申しても、たぶん無駄だろう。ヤツら、自らの信念の正当性について、全力で反論してくると思う。そういう民族だ。

で、ガイジンからそうした反論を吹っ掛けられると、「面倒くせー」とか言って、いとも簡単に引き下がってしまう我が同胞。

仕方がないよな。我々もまたそういう民族。染み付いちゃっているわけだ(笑)。

2020/12/24 バッハ・コレギウム・ジャパン

2020年12月24日   バッハ・コレギウム・ジャパン
サントリーホール クリスマスコンサート
ヘンデル  オラトリオ メサイア
指揮  鈴木雅明
松井亜希(ソプラノ)、青木洋也(カウンターテノール)、櫻田亮テノール)、加來徹(バス)


公演のタイトルは「聖夜のメサイア」。クリスマスの恒例コンサートで、今年で20回目なのだという。
すごいっすね。
クラシック界にとって師走と言えば「第9」なわけだが、BCJにとっては「メサイア」というわけ。
別に師走という理由で第9を聴きたいとはこれっぽちも思わない私にとっても、本公演は魅力的に映る。

さらに、本公演が私の今年の聴き納め。

いやいや、今年はほんとうに大変だったよのう・・・。

そういうわけだから、とてもじゃないが「聖夜の気分に浸る」なんてことは出来ない。
もうさ、お清めだな。お清め。
塩でも盛って、悪いことは全部流して、来年こそは良い年でありますように。アーメン。


肝心の演奏だが、さすが20回目、もはや定番と化しているだけあって、万全の仕上がり。すべてがコントロールされ、美しくて素敵なメサイアだ。

鈴木さんの音楽は、もちろん古楽のアプローチであるし、そもそもBCJというオーケストラがそういう編成。
にも関わらず、いかにもバロックっぽい古めかしさがまったく感じられない。
それどころか、スタイリッシュかつシャープで、現代人の感性にも十分にマッチしていると思う。
きっと、普段はあまりクラシックを聴かないけど、せっかくのクリスマスだからクラシック聴いてみる?と会場に足を運んだお客さんの心にも、ストレートに響いたことだろう。

それに、第2部最後の晴れやかなハレルヤ・コーラスは、気分を前向きにさせてくれる。
大変な世の中だけど、希望はきっとあるさ。ね。

2020/12/23 庄司紗矢香 ヴィキングル・オラフソン デュオリサイタル

2020年12月23日   庄司紗矢香 ヴィキングル・オラフソン デュオリサイタル   サントリーホール
バッハ  ヴァイオリン・ソナタ第5番
バルトーク  ヴァイオリン・ソナタ第1番
プロコフィエフ  5つのメロディ
ブラームス  ヴァイオリン・ソナタ第2番


「日本人最高のヴァイオリニストは?」というアンケートの集計結果があるとしよう。
好みも含め、一つ一つの意見は様々だと思うが、集計してまとめた結果であれば、おそらく第一位はきっと五嶋みどりさんになるだろう。

でもね。五嶋みどりさんは、確かに日本で日本人の両親から生まれたけど、今はアメリカ国籍。
つまりアメリカ人です。
もしオリンピックに出場する場合には、彼女はアメリカ代表になるんだぜ。
それでもいいのか、皆の衆。

ま、オリンピック、出場しないか・・・。


栄えある第一位が資格審査でちょっと怪しくなってしまったが、五嶋みどりの次に堂々ランクインするのは、間違いなく庄司紗矢香ちゃんだ。

そういう紗矢香ちゃんも、日本に住んでいないけど・・ま、いいでしょう。

私に言わせれば、そもそも「日本人」という枠をはめること自体に、ぜんぜん意味が無い。
別に日本人だろうが日本人じゃなかろうが、そんなことはどうだっていい。
五嶋みどり庄司紗矢香も、二人とも世界屈指のヴァイオリニスト。それでいいのである。

「紗矢香ちゃん」なんて“ちゃん”付けしちゃったけど、Wikiで御年を調べてみたら、もう37歳なんだってさ。ひぇー。イメージはまだまだ20代だけどな。


さて、彼女のリサイタルを久しぶりに聴いた。彼女の演奏は、これまでオーケストラの共演によるコンチェルトが圧倒的に多い。海外からの来日が困難な昨今の情勢もあり、なおさら貴重な機会だ。

コンチェルトのソリストとしてのイメージは「華奢な身体から放たれる風格やオーラ」だったが、この日のリサイタルで捉えたイメージは、極限的な繊細さであった。音を外に向けて飛ばすのではなく、内に向けて旋律を大切に紡いでいる感じ。
これはなかなか興味深い発見だった。

やはりコンチェルトとリサイタルとではアプローチが変わってくるということだろうか。

おそらく、共演したピアニスト、オラフソンとのコラボレーションが関係しているのだろう。
お互い丁々発止で主張し合うのではなく、全幅の信頼を寄せた上で、ひたすら自分の演奏に集中していたように見えた。

そのオラフソンも、初めて聴いたが、素晴らしいピアニストだと思った。
この日のプログラムはデュオのための作品なわけだが、そのままピアノパートだけの演奏でも、コンサートとして十分に成立したのではないか。それくらい音楽的だった。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

広島に遠征してフェドセーエフ指揮の広響を聴いてきたのが、10日前のこと。その後、広島ではクラスターが発生し、感染状況が悪化。Go to キャンペーンが全国に先駆けて一時停止というニュースが駆け巡った。
演奏会のタイミングとしては、ギリセーフで良かったとも言えるが、改めて行動にはくれぐれも慎重に気を付けるべきだということを認識した。

その広島で聴いたフェドセーエフショスタコーヴィチ交響曲第5番。
フェドのタコ5は、何となく以前にも聴いたことがあると思っていたが、ちゃんと調べてみたら、なんと初めてであった。これは自分でも意外というか、なかなかの驚きだった。
なぜなら、フェドセーエフくらいの名指揮者であれば、当然これまでに日本で何度も演奏してきただろうし、それくらいロシアの指揮者にとってこの曲を演奏するのは当たり前の名曲だからだ。


私がこの作品に出会ったのは、今からウン十年前の高校生の時。クラシック音楽に夢中になり、レコードを買って自分のレパートリーを広げていた頃だ。
入手したのは、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモックによる1979年東京ライブ録音盤。名盤との誉れ高く、当時、自分としては間違いのない選択だったと思う。

なんてカッコイイ曲、なんてカッコイイ演奏。
私はハマりましたよ、曲と演奏の両方に。
特に第4楽章。勇ましく、雄々しく、そして華やか。素早いテンポが、何とも言えず爽快。

こうして私のタコ5のスタンダードは、まずバーンスタイン盤で形成され、刷り込まれた。

そんな私に、当時、高校ブラスバンド仲間の友人クンが横槍を入れてきた。
チッチッチッ、あのな、バーンスタインなんて田舎モンの演奏だぜ。
ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの演奏、これこそが最高だ。これこそが究極にして大本命の決定盤だ。これを聞かずしてタコ5を語るなかれ、だ。

そうなのか? 本当か? そんなにすごいのか?
さっそくムラヴィン盤を買って聴いてみた。

ひっくり返った。椅子から転げ落ちるくらいの衝撃だった。
凄まじい。と・に・か・く、凄まじい。
これがムラヴィンなのか。これが鉄のカーテンの向こう側のオケなのか。
シベリアから吹き付ける吹雪。共産主義国家の一糸乱れぬ軍隊行進。粛清の恐怖・・・。
怖いよ~、助けて~、イヤだ~。

友人クンが尋ねてきた。「どうだいすげーだろ?」
「すっっっっっっごかった。」と答えた私。ニヤリとほくそ笑む友人クン。

バーンスタインニューヨーク・フィルは1979年に東京文化会館でタコ5を演奏し、それが録音されたが、なんと、その6年前、ムラヴィン&レニングラード・フィルも1973年に、同じく東京文化会館でこの曲を演奏し、それが録音されている。
当時、この両方を生で聴いた人、いるんだろうな。なんて幸せな人だ。もうこれで死んでも本望じゃないのか?


さて。
実を言うと、何を隠そうこの私も、ショスタコーヴィチ交響曲第5番の生鑑賞で、一生の宝となる天下一品の公演に立ち会っている。

1983年10月、スヴェトラーノフ指揮によるソビエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)。

私は残念ながらムラヴィンスキーに間に合わなかった人間だが、少なくともチャイコの悲愴とショスタコの5番の生演奏に関して、スヴェトラーノフこそが究極絶品であり、あれから37年経っても、これ以上の演奏に巡り会えていない。
ていうか、これからも多分、絶対、巡り会わないだろう。

2020/12/11 ゲルハルト・オピッツ ピアノリサイタル

2020年12月11日   ゲルハルト・オピッツ ピアノリサイタル  東京オペラシティコンサートホール
ベートーヴェン   6つのパガテル、ピアノソナタ第30番、第31番、第32番


この日、午前中いっぱいを広島で過ごした後、新幹線で東京にリターン。自宅に帰らず、その足で初台に向かう。
読響、広響に続くコンサート三連チャン。しかも、間に一泊の遠征旅行付き。
海外への鑑賞旅行がすっかりお預けとなっている中、久しぶりに「それらしい」気分を味わさせていただいた。「第三波が到来している最中に何を戯れているのか」とのお叱りの向きがあるかもしれない。その点については謝る。どうもすみません。

ゲルハルト・オピッツ。彼もまた、2週間の隔離を受け入れての来日だ。
もっとも、噂によれば、日本人の奥様がいらっしゃって、日本に家があるらしいのだが、そこらへんはよく知らない。

音楽はとにかく自然体で、優しい。肩肘を張らず、見せかけを大きくしようとせず、人間味溢れるピアノで、飾らない等身大のベートーヴェンが聴き手の心を癒やしてくれる。少し枯れた感じもするが、そこらへんもオピッツらしくて良い。

ピアニストがリサイタルでベートーヴェンの「最後の3つのソナタ」を採り上げる時、解釈として、32番をピークに持っていくために一連の流れを作り、それに向かって盛り上げていく、みたいなやり方を時々見かける。
ところがオピッツの場合、そうした一連性が感じられない。あくまでも一つ一つのソナタに向き合っているように聞こえる。

32番もそうだ。
いかにもベートーヴェンらしく第1楽章を「勇ましく立ち向かう壮健期」、第2楽章を「人生を振り返る終焉期」みたいに仕立て、起承転結の表現を試みようとするやり方を時々見かける。
オピッツは、ここでもそうしたドラマを語ろうとしない。解釈によってストーリーを作るのではなく、作品のありのままを再現しようとしているように聞こえる。

それがオピッツのベートーヴェンであり、オピッツというピアニストの流儀ということなのかもしれない。

彼はヴィルヘルム・ケンプの薫陶を受けた一人だという。
果たして彼の演奏にどれくらいケンプの影響が残っているのか、それははっきり言ってよく分からない。

それでも、「もしかしたら、ケンプってこういう演奏をしていたのかな」と思わず想像してしまう。そんな佇まいを感じる、オピッツのピアニズムであった。

広島にて

広島の訪問は人生3度目。
初めては高校生の時の修学旅行。2回目は20年くらい前に仕事上の全国会議が広島で開催され、それに出席しただけ。観光は一切なし。
ということで、実質的に修学旅行以来の2回目。チョー久しぶりなわけだ。

行く前にどんな観光ポイントがあるのか調べたのだが・・・。

意外とないのね、広島。

原爆ドームや資料館がある平和記念公園界隈、それから厳島神社がある郊外の宮島、ほとんどこの2つに尽きると言っても過言ではない。
市内だと、後はせいぜい広島城くらいか。お好み焼きレストランがビル内に詰まったお好み村というのもあるみたいだが。

まあとにかく、原爆ドームと平和記念資料館は行ってみよう。これはやはり日本人としてマストだよな。

まずは原爆ドーム

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あら?

あらら・・・。
あれま~~!?(笑)。


次、平和記念資料館。
予め調べておいて良かった、なんと入場は事前予約制だった。危ねえ~。

展示内容は昨年にリニューアルされたばかりとのこと。
以前に比べ、プロジェクターやモニターなどで映し出される写真の展示を増強したようで、そこに実際の人々の語った言葉が添えられ、訴求力をより強めた印象だ。
高校生だった時の自分は、あの時、何だか非現実的な出来事のように捉えてしまい、今ひとつピンとこなかった。今回、リニューアルされ、強烈に目に焼き付く展示の数々を改めて見て、リアルな惨たる出来事として心にグサッと刺さった。


言うまでもなく原子爆弾は非人道的だ。絶対に使用されてはいけないのは、世界中の誰もが分かっている。

でも、なくならない。

今回修学旅行で訪れていたキミたち、何でだと思う?

それは、原爆が国や地域間のパワーバランスや牽制のための道具になっているからだ。
「それがあるからこそ抑止になっている」などという理屈がまことしやかに通用する。

どうやら我々は、現実の世界情勢とパラドックスについて、学ばなければならないらしい。
そうでなければ、「その恐ろしさを実体験的に知っている唯一の国が核不拡散条約に参加しない」という不条理を理解することなど不可能。

人類っていうのは、平和や幸福を希求しておきながら、一方で、絶対に譲れない大義やプライドに固執するどうしようもない生き物なのだ。

修学旅行で訪れていたキミたち、そこらへん分かるかな?

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2020/12/10 広響

2020年12月10日   広島交響楽団   広島文化学園HBGホール
被爆75年特別定期演奏会
指揮  ウラディーミル・フェドセーエフ
チャイコフスキー   幻想序曲ロメオとジュリエット
ショスタコーヴィチ   交響曲第5番


はぁー・・・(ため息)。

期待したんだけどなぁ。だからこそわざわざ広島まで出張したんだけどなー。
残念ながらその期待は裏切られた。

別にフェドセーエフがダメだったとか、衰えたとか、そういう感じではなかった。
広響だって、熱演だった。それは認める。
そりゃ、フェドさんみたいな巨匠が、たった一公演だけのために二週間隔離を受け入れて広島にやってきたわけだ。オーケストラとしては気合いが入らないわけがなかろう。

でも、作品の真髄を詳らかにするためには、一生懸命とか真剣とかを見せつけるだけでは不十分だし、そもそもプロである以上、そうした懸命さが前面に出てくるようではダメなのだ。

広響の演奏からは広響の物と思われるサウンドが聴こえてきた。
だが、肝心のチャイコフスキー、あるいはショスタコーヴィチが聴こえてこなかった。作品が浮かび上がって来なかったのだ。
少なくとも、私には・・・。

もしそうだとしたら、その責任は指揮者が全面的に負うことになるわけで、ならばフェドセーエフのせいということになる。
そうなのか?? そういう結論でいいのか??
うーん・・・。

ちなみにツイッターなどで聴いた人の感想を眺めてみたが、絶賛している人が多かった。
ふーん、あっそう・・・。
ということは私の耳が節穴だったということになるな。
まあ、それならそれで別にいいけどさ・・・。

みんな「フェドセーエフ」という名前だけで「素晴らしい」と信用しちゃってないか?
普段の広響より熱量が多かったというそれだけで「名演だ」と奉っていないか?

あ、いや。
やめよう。そういうことを言っちゃいけない。
感動に身を包むことが出来た皆さん、おめでとう。良かったね。

一つ、責任をなすりつけ、そのせいだとクレームを押し付けられる原因というのがはっきり分かっている。
ホールだ。
クラシック音楽に適するための設計がなされていない、普通のそこらへんの多目的ホール。無味無臭の乾燥した音響空間が、時々露呈する広響のクオリティの甘さを晒し出す。
私は広響の普段の演奏活動実態を知らないが、このホールが定期演奏会の会場、主戦場なのだとしたら、もう本当にご愁傷様としか言いようがない。

音響とは関係ないが、開演時間が迫っていることを告げるアナウンスで、「ブーーーーーーーー」という味気ないブザー音が場内に鳴った瞬間、「あっちゃー・・」と思わず天を仰いでしまった。

そうだ。すべてはホールのせいだ。この際そういうことにしよう。
東京は恵まれているんだな。