音楽学者デリック・クックの補筆によるマーラーの交響曲第10番全曲版。この曲に対する評価、というより、第三者によって補筆完成された曲をどのように認め、どのように評価するかについては、様々な意見があろうかと思う。
たとえ作曲家本人の基本構想や主旋律のスケッチが残されていたとしても、そこからオーケストレーションしていく過程で補筆者の技術や個性が前面に出てしまう可能性は否定出来ない。マーラーが純然と書き上げた物ではない以上、それはマーラーの作品ではないとし、ゆえに認めないと主張する人も必ずいるに違いない。
だが、それでも私はこの作品を肯定する。同時に補筆行為そのものも肯定する。
そんなにややこしい問題だとはあまり思っていない。この全曲版は「作曲家が純然と書き上げた物ではなくて、別人が補筆していますよ」と最初から断りが入っている。ならばそれでいいじゃないかと思うのだ。ゴーストライターの存在をひた隠しにし、自分が書いた作品だとして世に送り出していた某輩とは決定的に違う。
そういうわけだから、私は「これはマーラーの作品なのか」という議論自体が不要不毛だと思っている。重要なのは、作品そのものの出来である。余計な勘ぐりや偏見を捨てて、素直に作品を聴いてみようではないか。その作品が素晴らしいかどうか。その作品が聴く人の心を動かす曲であるかどうか。
もし不出来な物だったら、それまでだ。お蔵入りさせればいいし、採り上げなければいいし、聴かなければいい。
同様に「他のマーラー作品に比べて」という比較も不要。別人の手が加えられているのだから、比較したって仕方がないでしょう。クックは別に擬似マーラー作品を作ろうとしたわけではない。学術的に未完の作品を補完しただけだ。眉をひそめる必要はない。
もう一つ。
不幸にもマーラーは途中で亡くなってしまったが、全曲の構想が仕上がっていた以上、未完成の部分にも何らかのマーラーの意思やメッセージが存在しているはずである。そのメッセージの中身を探求する試みは絶対にあっていい。
特に最終楽章はこの曲の肝だ。マーラーはどの交響曲でも最終楽章にいわゆる「答え」を用意していた。実際、この10番も最終楽章が語っていることはものすごく意味深である。よく「死後の世界」だとか「宇宙」だとか言われるが、決して大げさな表現ではない。私自身も、先日のインバル都響の演奏を聴いてそういう臨場体験をしたばかりだ。
マーラー自身の筆によるものではないからという理由で第一楽章アダージョ以降の楽章を省くということは、すなわちこの曲全体に秘められたマーラーの心情を伺う機会を失することを意味する。補筆版でそれを完全に見つけることは出来ないかもしれないが、少なくとも推測は出来る。それは重要なことだ。補筆行為を肯定すると上に書いたのは、以上の理由による。
残念ながら、10番の全曲演奏が行われる機会は少ない。他の交響曲はあれほど人気があるというのに。 きっと公演主催側と聴衆の両方に困惑と躊躇があるのだろう。
一方で、先日のインバル都響の公演で、改めて補筆全曲版の素晴らしさに開眼した人も決して少なくないだろう。これをきっかけにもっと演奏される機会が増えてほしいと願わずにはいられない。