指揮 エリアフ・インバル
「なにをオーバーな」と一笑されるかもしれないが、でも本当にそういう感覚に陥ったので正直にストレートに書く。本公演はあたかも自分の命を差し出したかのような、まるで人生の終わりを宣告されたかのような極限の観賞体験だった。
私は最後の審判の前に立たされた。
普通なら恐れ慄いてもいいだろう。だが、不思議と畏怖感はなかった。なぜなら、その先にあるものがもう少しで見えたような気がしたからだ。
でも、インバルはそうしなかった。彼はその最終章として、10番クック補筆版を持ってきた。
なぜインバルは9番で終わりとしなかったのか。その理由はこの日の演奏で詳らかにされた。つまりインバルにとって、どうしても10番が必要だった。マーラーを知るためには10番を外すわけにはいかなかった。
しかも、それは完成している第1楽章アダージョのみでは足りない。それだけでは語り尽くせないのである。未完に終わったとはいえ、この曲にはそれまでの交響曲では語られない何かが存在している。それを明示する必要があったのだ。
このことについては、実はインバルは語っている。10番は死後の世界であり、死後から現世を見つめているのだ、と。
あえてそれを私自身の言葉で表現するなら、10番は「無限」であり、「時空を超えた宇宙の存在」である。マーラーの全容に迫るためには、そこに踏み込まなければならない。たとえ第三者による補筆の助けを借りてでも。
インバルの意気込みたるや凄まじかった。音楽に没入する度合いが年を追うごとに深みを増しているインバルだが、今回の演奏に至っては、タクトだけでなくあらゆる感覚機能を総動員させてスコアと対峙していた。いつもよりも唸り声が轟いていたのは、深淵の世界に到達するため、不幸にも完結し得なかったマーラーの神秘に辿り着くため、理性をかなぐり捨ててしまった結果だろう。
そうでもしないと聞こえてこない響きがこの曲に存在する。そのように演奏して初めて見えるものが存在する。
運命の扉の前に立たされたのは最終楽章だ。もう本当に死ぬかと思った。バスドラムのとどめを刺すかのような一撃で意識がぶっ飛んだ。トランペットのつんざくようなハイトーンで息が止まり、目の前が真っ白になった。弦楽器の上昇グリッサンドで魂が成層圏を突き抜けた。
マーラーが示唆し、インバルが探ろうとした「無」の世界がもう少しで見えるところだったが、私は現世の未練により目を開け、深く息を吸った。その時、指揮台上のインバルのタクトが静かに降ろされた。私は地上に開放された。
放心状態でぐったりとなった私には、もう拍手をする余力が残っていなかった。