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2010/12/25 新国立 トリスタンとイゾルデ1

2010年12月25日  新国立劇場
指揮  大野和士
演出  デヴィッド・マクヴィカー
ステファン・グールド(トリスタン)、イレーネ・テオリン(イゾルデ)、ギド・イェンティンス(マルケ王)、ユッカ・ラッシライネン(クルヴェナール)、エレナ・ツィトコーワ(ブランゲーネ)、星野淳(メロート)  他
 
 
 「うーむ・・・。」と腕を組み、唸り、考え込んでしまった。
 
 これから御覧になる方は是非ご自身でご判断していただきたい。色々な見方があり、人それぞれの印象があるのは当然。そのことを前提で書く。以下、あくまで私が感じたこと。
 
 まず最初に歌手について。
 特に今回ロールデビューを飾ったステファン・グールドが素晴らしかった。非常にパワフルだが、決して力まかせにしない。声をコントロールし、途中でバテることなく最後まで見事に歌いきった。ただ単に歌うだけでなく、トリスタンの心の葛藤、苦しみまで踏み込んで表現している。新しいトリスタンがここ東京で誕生した。新しいだけでなく、いきなり‘屈指のトリスタン歌い’として名乗りをあげた。今後彼は確固たる自信を引っ提げて、世界の桧舞台でこの役を歌うことになろう。
 もちろんイゾルデを歌ったテオリンもさすがだった。歌手に関して言えば世界最高レベルの饗宴が繰り広げられた。
 
 次に演出。完全に意表を突かれた。
演出家マクヴィカーは、作品の核心部を訳知り顔で饒舌にああだこうだと説明するのではなく、あたかも印象だけを絵に置き換えるかのように、静かに指し示すに留めた。重箱の隅を突っついて読み取った過多な情報を、これみよがしに押し付けようとする多くの現代演出(マクヴィカーなら、そういうやり方も出来たはず)にあえて背を向けた手法を選択した。
 おそらくマクヴィカーは、「この作品に限って言えば、どんな姑息なことをやっても音楽には勝てない。音楽が全てを語っている。」という結論に至ったのであろう。
 
 漆黒が支配する夜、月の出入りとその色、イゾルデの衣装の色、浜辺の水、第2幕の灯台のような塔・・・全てがシンボリックである。
 だが、それらはあくまでもトリスタンやイゾルデを表すシンボルでしか無く、深読みできるような隠された意味は、おそらくない。その点に物足りなさを感じる人がきっといるだろう。一方で、舞台のシンプルな美しさに魅入る人もいるだろう。評価が分かれると思う。
 
では、私はどっちだ?
「うーむ・・・。」
 
唸ってしまったまず一つ目がこの演出についてであった。
考え込んでしまったもう一つ。大野和士が引っ張ったオーケストラ(東フィル)だ。
 健闘していたことは間違いない。時折聞こえてくる厚い響きは間違いなくワーグナーのそれだ。
 
だが・・・。
 
 今回の上演が、初めて日本で舞台用に製作されたトリスタンだ。
 ではこれまで日本で全く上演されなかった演目かといえば、そんなことはない。古くはバイロイト音楽祭の製作バージョン(ヴィーラント・ワーグナー演出版)が来たことがあり、その他ウィーン国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラ、ベルリン州立歌劇場、バイエルン州立歌劇場といったワーグナーに絶対の自信を持つ超一流の歌劇場が誇りと威信をかけて日本に来ている。更には、国内でただじっと首を長くして上演を待つのではなく、海外の本場でトリスタンを体験している人も少なくなかろう。私も国内より海外で鑑賞した回数の方が多く、今回で12回目である。
 
 もちろん、生の上演鑑賞だけでなく、フルトヴェングラークライバーベームなどの名盤をじっくり聴き込み、頭にたたき入れているマニアも多かろう。
 
 つまり多くの観客が、既にトリスタンにおける最高の演奏、最上の味を知っちゃっているのである。それに比べて、この日の東フィルの演奏のなんと淡泊であったことか。
 
 では、果たして東フィルが駄目だったのだろうか?大野和士が駄目だったのだろうか?
 
いや、違う。
 
今回私が痛感したこと - それは「この作品には、日本人がどんなに頑張って演奏しても、近寄ることは出来ても超越までは成し得ない、果てしない奥深さが存在すること」だ。まるで、あたかもエベレストが、安易な入山を拒むが如くそびえているかのようだ。
海外であれだけ活躍し、私が全幅の信頼を置く大野さんでさえも、この壁にぶつかった。これが二つ目の「うーむ・・・」だ。
 
 
 やれやれ、せっかくの「日本初!のプロダクション」の快挙なのに水を差したような感想だ。ごめん。最終公演にもう一回行くので、その時、もし印象が変わっていたら改めて記事にしようと思う。