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2011/1/10 新国立 トリスタンとイゾルデ2

2011年1月10日  新国立劇場
指揮  大野和士
演出  デヴィッド・マクヴィカー
ステファン・グールド(トリスタン)、イレーネ・テオリン(イゾルデ)、ギド・イェンティンス(マルケ王)、ユッカ・ラッシライネン(クルヴェナール)、エレナ・ツィトコーワ(ブランゲーネ)、星野淳(メロート)  他
 
 
 いやー驚いた。
 
 昨日のN響公演の記事で、この日のトリスタン最終公演について「回数を経て、演奏が小慣れてきたらいいな」と書いた。そしたら本当にそうなっていたのだ!この日の演奏、特にオーケストラについて、初日(12月25日)に比べて見違えた。なんっつうか、完全に吹っ切れていた。もちろん、トリスタン上演史に残るかのような空前の演奏かといえばそんなことはないし、ベルリンやミュンヘン、ウィーンなどでの公演で体感する地の底から湧き出るようなグイグイ感や官能的なうねりはまだまだ乏しい。だが、響きは確実に厚みを増していた。
 
 それにしても東フィル。あの初日、それなりに頑張っていたけれども、なんとも言えずビミョーだった演奏はいったいなんだったのだろう。例えるなら、ワールドカップサッカー本大会、世界中が注目し期待する開幕試合で無難な0-0引き分け試合を見せられたようなビミョー感だった。きっとプレミエで緊張していたのかもしれない。新国立劇場空前とも言える期待の重圧に苛まれたのかもしれない。だが、回を重ねて解き放たれた。ひょっとして、ネットなどでの一部芳しくない評判を目の当たりにして発奮し、ど根性を見せたかな?(笑)
  
 演出について、気が付いたことを書こう。
 
 他の一般的な常套演出と異なって個性的だったのは、イゾルデの二つのアクションだ。
 
 まず一つ、ご覧になった多くの方が気付いたと思うが、禁断の愛の媚薬を飲み干すやいなや、カップを投げ捨て、すぐにトリスタンと熱い抱擁を交わしたこと。普通なら、飲んだ薬がじわじわと効いていき、音楽の高揚とともに時間をかけてようやく抱き合うのだが。
 もう一つ、第2幕最後でトリスタンが自らの剣を捨て、メロートの刀に身を投げる衝撃的なシーンで、普通ならそこでイゾルデは激しく動揺しながら瀕死のトリスタンに駆け寄って嘆き悲しむはずなのに、そんな素振りは全く見せず、落ち着き払って慈しみの表情で倒れたトリスタンを腕に抱いたこと。
 
 これは間違いなく演出家の明確な意図である。さて、ここから何が読み取れるだろう?
 
 おそらく、イゾルデは、トリスタンと結ばれる運命となるのも、トリスタンが死を選択するのも、最初から全て想定していたのだと思う。トリスタンと出会った時から、そうなることを予期していたのだ。結ばれたのは媚薬のおかげではない。媚薬は単なるきっかけであり、口実でしかない。「永遠の愛は死でしか成就しえず、イゾルデはトリスタンと出会った時からそれを運命として悟っており、当然の帰結である。」ということを演出家は言いたかったに違いない。(たぶん、きっと)
 
 第3幕でのトリスタンの衣装は黒だった。夜を表す黒。死を予感させる黒。イゾルデはというと、最初トリスタンと同じ黒色のマントに身を包んで登場し、倒れているトリスタンに駆け寄ると同時にさっとマントを翻して裾の長い真っ赤なドレスとなった。トリスタンの亡骸に寄り添うイゾルデの赤く伸びたドレス。それは、トリスタンの身から流れ出た「血」にほかならない。トリスタンの死によってイゾルデはようやく彼の血となり、一心同体になることが出来た。
 
 舞台に浮かぶ赤い満月。すると、なんだかその月が血を供給し循環させる心臓そのものに見えてきた。やがて月は血の気が引いて静かに海の向こうへ沈んでいく。入水していくイゾルデ。行き先はもちろんトリスタンのところ・・・。幕。一瞬の静寂。深い感動。やがて盛大な拍手。スタンディングオベーション
 
 トリスタンとイゾルデの上演体験はやはり特別。プレミエの時はそう思えなかったが、昨日は心底そう思えた。2回行って良かったと思った。
 
 指揮の大野さん、全身全霊を傾けた渾身のタクト、終わって精根尽きたか・・・ダウンしてしまったそうだ。ドクターストップ、この後行われる予定の東京フィルハーモニーのコンサートを全てキャンセルしてしまった・・・。