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2017/3/18 トリスタンとイゾルデ

2017年3月18日   リヨン国立歌劇場
指揮  ハルトムート・ヘンヒェン
ダニエル・キルヒ(トリスタン)、アン・ペーターゼン(イゾルデ)、クリストフ・フィシェッサー(マルケ王)、アレハンドロ・マルコ・ブールメスター(クルヴェナール)、トーマス・ピフカ(メロート)、イヴ・モー・ウブー(ブランゲーネ)   他
 
 
バイロイトが制作したプロダクションをバイロイト以外の劇場で観られる時代が来るとは、夢にも思わなかった。門外不出の物と思っていた。世の中変わるもんだ。こんな所にもバイロイト改革の一環が垣間見える。
そのバイロイト初演版は映像化されている。私もNHK-BSで放送された物を録画し視聴したが、バレンボイムが振り、イェルザレム、マイヤー、シュトルックマンらが歌ったこの舞台は、素晴らしい名演だと思った。何よりも演出がすごくいいと思った。
 
そのミュラーの演出。私が考えるポイント、ミュラーが舞台で表現しようと思ったもの、それは多分こうだ。
トリスタンとイゾルデの二人は、『運命』という大きな力によって突き動かされる。物語は、そうした運命の力が支配する窮屈で閉鎖された世界の中で展開される。二人の衝動の源は、愛の結晶でも薬の魔力でもなく、抗えない強制的な力であるため、本人たちの思いどおりにはならない。事実、お互いは意思とかけ離れ、磁石の同極のように交わり結ばれることがない。」
 
以上はあくまでも私見だが、もし概ねこういうことなら、私はこの解釈理論に賛同したい。
 
「本当は心の中で愛し合っているのに表に出せなくて、愛の薬を飲んだらそれを表に出すことが出来て、でも現実的にはこの世で結ばれることは許されないから、じゃあ死後に結ばれましょうね・・・。」
私にはこんな原作のストーリー仕立てにあまり共感を覚えない。なんか釈然としない。陳腐に感じる。
その点、ミュラーの解釈は独善的とはいえ、筋が通っている。何よりもワーグナーの狂おしいほどの音楽にぴったり合っている。
と、私は思う。
 
さて今回のリヨン版、既に演出家は鬼籍に入っているのに、バイロイト初演版と寸分違わぬ振付けがなされていたのには、非常に感心した。演出ノートを忠実に守り、それを再現する素晴らしいディレクターがいて、いい仕事をしたということだろう。
 
一方で音楽面においては、100パーセント満足というわけにいかなかった。
指揮のヘンヒェンは、前日のエレクトラではものすごく勢いがあったが、このトリスタンでは一転して安全運転のように聴こえた。
ただし、ひょっとするとこれは私自身の問題かもしれない。ヘンヒェンの音楽に対する単なる好みの問題。心のどこかでバレンボイムティーレマンと比較しちゃっている可能性が高いかもしれない。
 
歌手も、言ってみれば、まあそういう感じ。
ゾルデ役のA・ペーターゼンには、キラリと光るものを感じた。しかし、開演前に支配人が登場して不調アナウンスしたとおり、万全ではなかったようだ。トリスタンのキルヒは・・・彼はむしろメロートだよなあー。
 
まあそれはさておき、今回リヨンで2本のリバイバルを観られたのは、とにかく良かった。
ドレスデンバイロイトで上演された名プロダクション。いずれも観たかったのに観られなかった物。通常その機会を逃したらもうチャンスはないのに。それをリヨンでやった。
これはなにかい、私へのご褒美かい?
それはそれはどうも。メッスィ・ボクー、リヨン。