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暗譜って、必要なのか

小澤征爾氏が逝去されてから、2週間くらいが経過した。名指揮者の訃報に、世界中からお悔やみのコメントが今も後を絶たない。
そうしたコメントの中には、世界のマエストロらしく、彼と共演した一流の演奏家たちから寄せられた物も少なくなく、いかに偉大な音楽家であったかについて一様に賛辞しながら、故人を惜しんでいる。

そんな故人を偲ぶエピソードとして頻繁に目に止まるのが、概ね次の3つ。

「人柄が大変素晴らしかった」というもの、「情熱的でエレガントで、分かりやすいタクト」というもの、そして加えてもう一つ、「信じられないことに、あの時あの作品を彼は暗譜で振り、完璧に手中に収めていて・・・」という驚嘆である。


ここで私は思わず苦笑してしまう。不謹慎かもしれないけど。

「褒め称えられているのは、作品の解釈や表現力の秀逸さ、じゃないんだね(笑)」

亡くなった人を悪く言うつもりはないが、そこらへんがやっぱり「小澤征爾たる所以」だと思ってしまった。


で、本記事のタイトルなわけだが、「暗譜って、そもそも必要なのか」という素朴な疑問である。

原点に立ち返って、考えてみる。
指揮者の役割って、何??

「拍子を取り、音楽を進行させる。」  そうだねえ。
「オーケストラをまとめ上げ、一つの方向に向かわせる。」  うんうん、そうそう。

でも、現代のクラシック音楽界において最も大切な指揮者の役割は、次のことではないだろうか。

「スコアを読み込み、作曲家と対話しながら、作品を解釈し、核心を捉え、音に命を吹き込み、魂を宿らせて、聴いている人の心を揺さぶる」

こうした究極の役割の過程で、暗譜って本当に必要なのだろうか?

「暗譜する」ということは、すなわち「スコアを覚える作業」である。
当然、時間がかかるだろう。
その時間、もったいなくないですか?
そんな時間があったら、作品を解釈し、核心を捉える作業に、より没頭した方がいいんじゃないですか?


暗譜の指揮者を見ると、特に難解そうな作品を暗譜で振ると、それだけでなんとなく単純に感心してしまう自分がいる。
「おー、暗譜じゃん、すげー」みたいな。

まさか、指揮者の魂胆で、「わたくし、スコアが頭に入ってるザマス。どうだ、すげーだろ」みたいなひけらかしを狙っている、などということは、そんなことは無いとは思うけどさ・・。


一方で、こういう見方、考え方があるのかもしれない。
「暗譜をすれば、よりオーケストラとの対話に神経を集中させることが出来る。」
「スコアを徹底的に勉強し、完璧に叩き込んで手中に収めたその果てに、作品を楽譜から解き放つ『自由』の権利を手に入れることが出来る。この自由こそ、演奏の生命力の源泉である。」


つまり、そういうことなんでしょうか?? 暗譜をする指揮者の皆さん。