クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2022/12/3 N響 A定期

2022年12月3日   NHK交響楽団 A定期演奏会   NHKホール
指揮  ファビオ・ルイージ
藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
ワーグナー  ヴェーゼンドンク歌曲集
ブルックナー  交響曲第2番


つい3か月前、首席指揮者就任披露演奏会で、多くのお客さんを集め、見事な演奏と共に最高のスタートを切ったルイージN響。盛り上がりがそのまま続くかと思いきや、この日の客席は空席が随分と目立つ。就任披露演奏会は単なるご祝儀だったのか。それともたまたま今回のプログラムが地味なのか・・。

まあ多分後者なのだと思うが、こういう渋いプログラムにスポットを当て、そして輝かせることが出来るのがルイージなのだ。その巧みな術を聴き逃すべからず。
それに、ヴェーゼンドンクを藤村さんの歌で聴けるというのも、この公演のポイントである。
これまでにW・マイヤーやE・クールマンなどの歌曲リサイタルでも聴いているが、オーケストラ伴奏で聴くのは1991年、小澤征爾指揮でH・ベーレンスが歌ったのを聴いて以来。超久しぶり。そういう意味でも個人的に注目だった。

その藤村さんのヴェーゼンドンク。深い。
もちろん作品がしっとりしているから「深い」と感じてしまう部分もあるが、それを差し置いても、解釈、ドイツ語の操り、歌唱技術、呼吸法などが、演奏に味わいを際立たせている。伴奏のオーケストラと融合し一体化する様は絶品だが、果たして藤村さんの寄せ方なのか、指揮者ルイージの合わせ方なのか。
両方なのかな。


ブル2。
上で「渋いプログラムにスポットを当て、そして輝かせることが出来る」と書いたが、まさしくそうした出来栄え。磨かれた演奏だ。

ところが、ルイージの鋭い研磨剤によって磨けば磨くほど、初期作品の初稿版という野暮ったさ、冗長さ、作曲技法の甘さ(モチーフとなる旋律が断片的であるなど)が露呈し、暴露されてしまうのは、もはや皮肉としか言いようがない。

まあ、それはそれで興味深かったんで別にいいけどさ・・。

ルイージは、そうした部分が表出される狙いも含めて初稿版を使ったのだろうか。うーむ・・・。

Gリーグ1位で決勝トーナメントへ

いやぁ・・・。(言葉が出ねえ・・)

あり得ねえ。

ドイツに逆転勝利、あり得ねえ。
格下(FIFAランクコスタリカに無策の超低レベル敗戦、あり得ねえ。
そしてスペインに逆転勝利、あり得ねえ。

いったいどうなってんだ、これ。
いったい誰がこんなシナリオ書ける?
もう笑っちゃうね。こんな奇想天外なことはない。

私の予想では、何を隠そうドイツに関しては、「もしかしたら、もしかしたら、まさかもあり」と思っていた。全員でしつこく、粘り強く、素早く戦えば、どこかで穴が開くかもしれない。そう思っていた。

一方で、スペインには絶対に勝てないと思っていた。
スポーツに絶対は無いというのなら、それじゃあ可能性5%未満。
スペインのボール保持率は圧倒的だ。90分を通して完全に支配されるだろう。おそらく日本はゲームをコントロールできないし、ボールを奪えない。奪ったとしてもすぐに奪還される。速いボール回しに振り回され、やがて疲弊するだろう。

だから、コスタリカに負けた時は「ハイ終わり」と思った。
コスタリカには勝つべきだったし、勝てる試合だった。そういう試合を無様な試合運びによってみすみす逃す愚かなチームは、決勝トーナメントに進出する資格無し。とっとと帰ってくるがよい。決勝Tは、そういう資格の無いチームが消え去って、そこからようやく本当のワールドカップが始まる。
私は冷ややかにシニカルにそう考えていた。

それが、まさかスペインに勝ってグループリーグ1位勝ち抜けとは・・・。

いやぁ・・・。(言葉が出ねえ・・)

あり得ねえ。
(冒頭の振り出しに戻り、繰り返し。音楽用語でダ・カーポという。)


大会前に、私はブログ記事でこう書いた。
華々しく撃ち合いに臨み、華々しく散ってしまえ、と。
相手の頬に強烈な張り手の一発をぶちかまし、世界を驚かせ、相手を本気にさせ、ガチの殴り合いをしてほしい、と。

世界は驚愕した。相手を本気にさせた。
つまり、私の期待どおり、いや、散ってないのだから、期待以上にやってくれたというわけだ。

だったら、素直に称賛しなければならないだろう。実際のところ、私も心の中では「スゲーぞ!!」と思っている。

でも・・・。
やっぱりこの結果だけで「おめでとう!」「感動をありがとう!」と言ったらダメなんだ。
決勝Tに進むのはノルマ。ベスト8やベスト4の進出は現実的な視野。監督も選手も平然と当たり前のように「優勝を狙う」と宣言する。もしそこに届かなかったら、ファンやサポーターは「なぜ負けたんだ!!」と怒りをたぎらせる。

私はそういう強豪国の国民になりたいのだ。
一歩一歩、着実に、ゆっくりと、そこに向かっているのは、きっと確かなんだろうけどね。


P.S
長友くん、ここは「ブラヴォー!」じゃなくて「ブラヴィッシモ!」と叫んでくれたら、「おー! さすがイタリアで生活していた伊達男」なんだけどな(笑)。

2022/11/26 サイトウ・キネン・オーケストラ

2022年11月26日   サイトウ・キネン・オーケストラ   ホクト文化ホール
セイジ・オザワ 松本フェスティバル30周年記念 特別公演
指揮  アンドリス・ネルソンス
マーラー  交響曲第9番


聞いたところによると、ネルソンスはボストン響の来日ツアー終了後も日本に居残り、奥様とつかの間の休暇を過ごしてから松本入りしたそうだ。
また、前日の松本公演では、セイジ・オザワ松本フェスティバル総監督の小澤征爾もカーテンコールに登場したらしい。ネルソンス自ら車椅子を押してステージに導いたそう。

二人は、ボストン響の音楽監督、旧と現という関係。個人的な間柄や仲については知る由もないが、今回たまたまの来日のタイミングとはいえ、サイトウ・キネンという小澤さん肝煎りのオーケストラの特別公演の指揮を引き受けるというのも、何かの縁とでも言えようか。

演奏作品は、30周年記念に相応しい勝負曲マーラー9番。
聴衆の側からすると、「ネルソンスが振るマラ9」というのがあり、それから「サイトウ・キネンが演奏するマラ9」という二重の楽しみがある。あるいは、先日のブロムシュテット指揮N響公演との比較を興味深く見つめる人も、少なからずいただろう。いずれにしても、ファンの期待が高まる公演だ。


今回の演奏を聴いて私が強く印象に残ったのは、ネルソンスのタクトが音楽と渾然一体化していたことだった。棒を振って演奏を引っ張るという様子ではない。指揮者の全身の表現が音楽そのものだった。音は自然と鳴り、音楽は生命力を伴って流れた。
つまり、ネルソンスはオーケストラに語らせ、作品に語らせていた。作品への深い敬愛や思い入れがそうさせていたのだと思う。至福に満ちた、充実の90分だった。


一方、「サイトウ・キネンが演奏するマラ9」という面で言うと、これはもう優秀な奏者たちの高度な演奏能力ということに尽きる。
日本人のソリスト級が何人も入っている弦楽器群の豊麗な響きも秀逸だが、やはり外国から馳せ参じた管楽器奏者の突出した演奏技術に舌を巻く。

演奏を聴いた誰もが唸ったと思うが、ホルンのバボラーク。その上手さに、ため息しか出ない。まさに百万ドルの輝きの音。

彼がベルリン・フィルを退団したのは、随分と前のこととはいえ、未だに惜しい、もったいない気がする。
ソリストとして活躍できるヴァイオリン奏者と違い、管楽器奏者にとって、名門オーケストラは目標となる居場所だろう。ましてやベルリン・フィルともなれば、それこそ究極の到達点だ。
その世界最高のオーケストラの首席奏者として、バボラーク以上に相応しい人はいない。それくらい抜群の奏者なのである。

ところが、そのベルリン・フィルを辞めたことで、こうしてサイトウ・キネンだったり、水戸室内だったり、彼のオーケストラ奏者としての有能な技量を日本で堪能できてしまう。
何だか不思議な因縁としか言いようがない。

2022/11/26 長野

セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年特別公演のため、長野に遠征。

長野に来るのは1998年以来。
1998年というのは、要するに長野オリンピック。あれから約四半世紀も経ったというわけか・・。

ということで、長野と言ったら善光寺


当初は日帰りの予定だったが、ちょうど全国旅行支援キャンペーンをやっていたので、お得な割引クーポンを利用して一泊することにした。

自分としては、普段ならパスしちゃうようなちょっといいホテルを予約し、お得感を体感するつもりだったのだが・・・行ってみたら、全然普通のビジネスホテルで、ラグジュアリー感ゼロ。
なんじゃこりゃ。超がっかり。これ、もし割引前の当初価格で泊まったら、完全に「ざけんなよ」だったな。

むしろ、温泉宿に泊まった方が良かったかもな。

本当は翌日(つまり今日)もゆっくり長野観光をしてから帰ろうと思っていたが、フランス戦やアルゼンチン戦の試合を早く自宅で観たかったので、結局速攻帰り。

2022/11/23 新国立 ボリス・ゴドゥノフ

2022年11月23日   新国立劇場
ムソルグスキー  ボリス・ゴドゥノフ
指揮  大野和士
演出  マリウシュ・トレリンスキ
管弦楽  東京都交響楽団
ギド・イェンティンス(ボリス・ゴドゥノフ)、アーノルド・ベズイエン(シュイスキー)、秋谷直之(アンドレイ)、ゴデルジ・ジャネリーゼ(ピーメン)、工藤和真(グリゴリー)   他


芸術監督大野和士が放った直輸入の世界最先端プロダクション。
日本ではまだまだオーソドックス志向が根強いが、本場欧州では「作品に新たな解釈を注入して、いかに現代的に蘇らせるか」を世に問う演出が専ら主流。もちろんすべての現代演出が良いわけでは決してないが、こうした潮流にしっかりと向き合い、積極的に採り上げていくことは、すなわち歌劇場の未来に向けた挑戦である。欧州の劇場でそうしたミッションをやり遂げてきた大野さんの果敢な試みは評価しなければならないし、少なくとも私は絶大支持する。
(毎年のようにお子様ランチが並ぶシーズンプログラムは、何とかしてほしいが・・)

また、大野さんは、今回の演出を担ったトレリンスキ氏と、2018年のエクサンプロヴァンス音楽祭でのプロコフィエフ「炎の天使」の制作で協働している。こうした世界とのコネクションを活かせるのも大野さんの強み。そのメリットはそのまま日本のオペラへの恩恵となろう。

更に、今回のプロダクションはポーランド国立歌劇場との共同制作で、諸事情あって、先に日本でプレミエを迎えることとなった。このため、トレリンスキを始めとする演出の外国チームがこぞって来日し、劇場関係者や歌手たちと直接的に共同で作り上げていった。これも、レンタルでは得られない貴重な機会と大きな財産をもたらしたに違いない。


そういうことで、出来上がった舞台は、案の定相当に尖っており、訴えかけるものがあって刺激的だった。

元々、このボリスという作品自体が、現代演出に適していると思う。
イタリアオペラにありがちな、愛だ恋だ三角関係だみたいな俗っぽい物語ではない。独裁者のドス黒い欲望にまみれた血みどろの権力闘争の史実である。冠を奪取し権力を維持するために実の息子を含む数々の敵対勢力を葬って来た挙句の果てに、犯した罪や陰謀の恐怖に慄き、錯乱するというストーリーは、まさに心理描写を得意とする現代演出家にとって格好の題材。トレリンスキも、さぞや腕が鳴ったことだろう。

だからといって、まさかボリスの息子フョードルを重度の脳性麻痺障がい者に仕立て、なおかつ聖愚者役と重ね合わせるとは・・・。
賛否両論あるだろうが、私なんかは単純にその想像力に驚愕してしまう。リブレットの薄っぺらい読み込みや単なる思い付きでは、決して辿り着かない意外性。で、そこに到達してしまう演出家の思考の深さと飛躍的な展開力。いやはや恐るべし・・。

確かにこの読替えは突拍子もない。だが、そうすることで主人公の苦悩(独裁者は往々にして権力を世襲させたがるが、障害の存在が重大な足枷となる)に重みが増し、一定の説得力を伴わせる。障がい者ゆえの純粋無垢な真実の告白(聖愚者によるボリスの息子殺しの告発)が更にボリスを苦しめ、首を締め付ける。追い詰められた結果としてまたもや我が子を殺めることとなり、最後はムッソリーニのように民衆によって吊るされる・・・。


それにしても、この物語に潜む独裁国家の興亡、絶対権力の危うさが、なんと現在の世界情勢にタイムリーに訴えかけてくることか。
今、私たちはウクライナで起きていることに決して無関心でいられない。そして、今回の舞台を観て、某国とその権力者にその姿を重ね合わせて見つめている。
ところが、この演目の上演が決まったのは戦争前だったし、トレリンスキがこのようなドラマトゥルギーを思い描いたのも、同様であったはず。
つまり、この「ボリス・ゴドゥノフ」は、実は元々時代を越えた人類への警鐘になりうる普遍的な超問題作だったのだ。


大野さんが紡いだ音楽も、これまた演出と同様に強い説得力に満ちていた。
ロシア音楽らしい、あるいはムソルグスキーらしい重厚さ、スケールの大きさはそれほど強調されていなかったが、これはおそらくトレリンスキとの綿密な協議の中で、主人公の心理面にフォーカスするための音楽をあえて作ったのだと思う。つまり、音楽と演出が同じ方向を向くことで一致していたのである。

興味深いことに、歌手についても同様の傾向が見られた。難しいロシア語を扱っていることもあり、大抵の場合は外国人キャストと日本人キャストで出来具合に差が生じやすい。
ところが、外国人日本人関係なく、それぞれが演劇的要素に重心を置いた語りのような歌唱に徹していた。あたかも音楽的進行はピットの中、あるいは作品そのものに語らせていたような気がして、その点でも音楽と演出の方向性がマッチし、成功していたのではないかと思う。


最後に、重度脳性麻痺障がい者役を演じた外国人女優の演技は、凄みを感じさせるものだった。

2022/11/19 I・レヴィット ピアノリサイタル

2022年11月19日   イゴール・レヴィット ピアノリサイタル   紀尾井ホール
ベートーヴェン  ピアノ・ソナタ 第5番、第19番、第20番、第22番、第23番「熱情」


コロナによる延期を経た上で開催されたレヴィットのベートーヴェンソナタプロジェクト。2年間全4回のシリーズで、そのうちの2回が18日と19日の連日で行われた。二日目だけを聴いたが、できれば両日とも行きたかった。

日本における知名度では、ツィメルマンキーシン内田光子、シフなどといった名匠に肩を並べるには至っていないが、レヴィットは紛れもなく名ピアニストである。私自身、これまでに3回しか実演に接しておらず、それだけで断言するのは若干憚りがあるが、天賦の才能を授かっているピアニストだと思っている。いわゆる「天才」ってやつだ。

そのように確信したのは、前回の来日リサイタルで、演奏家が「弾く」「奏でる」といった技術的な演奏行為の様相がまったく伺えず、作品自体が自発的に鳴っているかのような音楽創造の境地に至る感覚を捉えたからである。名匠の演奏に接すると、時々、時空を越えた宇宙が広がるような光景が見えることがあるが、まさにそうした稀有の体験だった。これは本当に衝撃だった。

あの興奮をもう一度味わいたい、レヴィットならまたやってくれる。そう思って会場に入ったのだが・・・結果は少々思い描いていたものと違い、それはそれで驚いた。

今回の演奏、意外であったが、そこにレヴィットという演奏者の解釈や洞察が伝わってきたのである。
具体的に言うと、スコアを解析した結果だと思うが、明らかに意図的と言えるテンポや強弱の動きがあったのだ。

「うーむ・・」と唸り、そして黙考する。
ベートーヴェンがそうさせたのだろうか。ベートーヴェンソナタを演奏するというのは、そういうことなのだろうか。


あるいは・・・もしかしたら、単純に当たり前のこと、当然のことなのかもしれない。
作品が異なる。時間が経過し、演奏家としての成長や成熟度、立ち位置も変わってくる。新たな発見が見つかることもある。社会や身の回りの状況変化が影響を及ぼすこともある。
そして、我々聴き手だって、その時々によって感じ方が違うのだ。

だとすれば、それはそれで楽しみが増してくる。
次の手は何か。どんな変化を見せてくれるのか。別の作曲家、別の作品をどう解釈するのか。

レヴィットは天才だ。今回の演奏を聴いても、その考えはいささかも変わらない。
でも、まだ完成されていない。可能性、まだ秘めているものがある。

ならば、私がやるべきことはただ一つ。これからも彼を追っかける。それだけだ。

2022/11/18 東響 サロメ

2022年11月18日   東京交響楽団   ミューザ川崎シンフォニーホール
R・シュトラウス  サロメ(演奏会形式上演)
指揮  ジョナサン・ノット
演出監修  サー・トーマス・アレン
アスミク・グリゴリアン(サロメ)、ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(ヘロディアス)、ミカエル・ヴェイニウス(ヘロデ)、トマス・トマッソン(ヨカナーン)、岸浪愛学(ナラボート)   他


ノットと東響が、モーツァルトのダ・ポンテ三部作に続き、シュトラウスのオペラをコンチェルタンテでシリーズ化させるという、嬉しい企画。今回その第1弾として、「サロメ」の公演が行われた。

シュトラウスの傑作をノットがどのように描くのか。東響がこれをどのように応え、どのように演奏するのか。このコンビのファンにとっても、さぞや楽しみな公演だろう。
だが、とりわけオペラ・マニアにとっては、今、世界で飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍中のソプラノ、アスミク・グリゴリアンの登場が最大の注目だ。私の興味もその一点に尽きる。

グリゴリアンは、彗星のごとく現れたオペラ界のニュー・ヒロインである。
2017年、ザルツブルク音楽祭にベルク「ヴォツェック」のマリー役で音楽祭デビューしたと思ったら、翌年の「サロメ」タイトルロールに大抜擢。これがセンセーションを呼び、2019年の再演にも出演。更に2020年の「エレクトラ」にもクリソテミス役で登場。
2021年は、今度はバイロイトで「オランダ人」のゼンタを歌って評判となり、そして今年、またまたザルツでプッチーニの「三部作」の三つ全部に出演・・・。

破竹の快進撃じゃんかよ・・。

そのグリゴリアンが来日してサロメを歌うというのだ。これを期待せずにいられようか。

期待は裏切られなかった。
いや、それどころか、期待を遥かに凌駕した衝撃、本物だった。

決して声量が大きいわけではなく、パワーで押し切るタイプではない。声の質は瑞々しく、繊細。
それなのに、オーケストラの大音量を突き抜ける鮮烈的な鋭さを持っている。
なるほど、これが世界を驚かせたグリゴリアンか・・・。
唸るしかなかった。

まさに理想のサロメ
現在、世界ではこの役を得意にし、第一人者の称号を賭けてしのぎを削っている歌手たちがいる。
マルリス・ペーターゼン、マリン・ビストレム、グン・ブリット・バークミン、マヌエラ・ウールなど。
今のところペーターゼンとグリゴリアンの二人が一歩抜きん出て、激しいトップ争いというところだろうか。


今回唯一残念だったのは、コンチェルタンテということもあって演技が最小限に抑えられていたこと。
決して棒立ちだったわけでもなく、歌唱だけでも十分立派なサロメだったが、ヨカナーンに挑み、誘惑し、そして拒絶されることでサロメが精神的に狂気を伴って変貌していく姿を、もっと演劇的に視覚的に表現してほしかった。そうしたらインパクト度は更に増したことだろう。グリゴリアンなら出来たはず。だから、この点については、アレンの責任。
(歌手のアレンからすれば、そうしたことも含めて歌唱の力で対応が可能で、信頼に委ねていたということかもしれないが。)


有名な「7つのヴェールの踊り」は、完全にオーケストラ演奏に任された。演技者によるダンスを見せる必要なし。見せ場の主役はオーケストラ。オーケストラの演奏こそがダンスだったというわけである。

指揮者のノットのタクトもキレッキレだった。彼の指揮はいつもキレッキレだが、それはオペラの演奏においても不変であり、一貫していた。
オーケストラが舞台の中央に陣取って主役を張るコンチェルタンテだからだろうか。
ピットの中に入る本格舞台上演でも、彼はあのようなエネルギッシュなタクトを振るのだろうか。
ノットがピットの中で指揮をするオペラ公演をまだ一度も観たことがないが、ぜひとも確かめてみたい気がする。


最高の歌手を揃えたおかげで、まず第1弾は大成功の運びとなった今シリーズ。
なんと、早くも第2弾が発表されている。
来年5月。演目は「エレクトラ」。タイトルロールはクリスティーン・ゴーキー、クリテムネストラは大ベテランのハンナ・シュヴァルツ・・・。

ノット&東響のシュトラウスオペラ、こいつはますます目が離せなくなりそうだ。