クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

お粗末新日本フィル

本日、シャルル・デュトワ指揮新日本フィルの公演チケット(6月)が先行発売されるということで、仕事を休んだ。
本当は昨年11月に来日して同オケを振る予定だったが、デュトワ氏本人がコロナ感染し、公演は中止。その代替となる特別演奏会であった。この11月公演のチケットを買った人たちのために特別優先発売日が設けられ、それが本日だったのだ。チケット申込方法は電話のみ。

電話のみかよ・・・。
すごくイヤな予感がした。なかなか繋がらないという事態が容易に想定された。だから、万全を期して休みにしたのだ。

そのイヤな予感が的中した。
発売開始の午前10時から1時間、2時間、まったく繋がらない。
さすがに2時間を超えると、いい加減うんざりしてくる。同時に、だんだんと腹が立ってくる。
延々と電話を掛け続けることで奪われる貴重な時間。
何なんだこれは。全然特別優先になってないではないか。優先という名の罰ではないか。

3時間・・・依然としてつながらないまま午後1時になったところで、私は電話作戦を終了させた。アホくさくてやってられなかった。
そこまでして聴きたいか、こんなに苦労してまで聴く価値があるのか、と自問した結果、「その価値はない!」という結論に至ったからだ。

なんで電話のみなんだよ。20年くらい前までは、こうやって電話を掛け続けてチケットを取るのが一般的だったが、なんで今、それをやらせるんだよ。何やってんだよ。今、そういう時代かよ。ネットでいいし、郵送でもいい。考えろよ。バカじゃねえの? 

一般発売で苦労するのなら、まだ分かる。「特別優先」だぜ??

もしかしたら、もう少し粘れば繋がったかもしれない。
時間を空けて、落ち着いた頃合いで再度電話すれば、良かったかもしれない。

だが、もはやどうでも良くなった。聴きたいという気持ちが完全に失せてしまったのだ。
所詮は新日本フィル
演奏レベルもさることながら、事務局は二流ってわけだ。

2022/4/14 東京・春・音楽祭 室内楽シリーズ

2022年4月14日  東京・春・音楽祭 室内楽シリーズ  東京文化会館小ホール
バルトーク  ヴァイオリンソナタ第2番、2つのヴァイオリンのための44の二重奏曲、2台のピアノと打楽器のためのソナタ
郷古廉(ヴァイオリン)、長原幸太(ヴァイオリン)、加藤洋之(ピアノ)、津田裕也(ピアノ)、清水太(打楽器)、西久保友広(打楽器)


私の悲しい法則、「大好きな曲は、なかなかコンサートでやってくれない。」

ストラヴィンスキーで最も好きな作品はハルサイでも火の鳥でもなく、バレエ音楽「結婚」だが、まったくコンサートでやってくれない。
チャイコで最も好きなのは「イオランタ」。プッチーニで最も好きなのは「修道女アンジェリカ」。
いずれもなかなか上演されない。

バルトークでも、この法則が当てはまる。私が大好きなのは「弦チェレ」、そして「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」だ。両作品とも滅多に聴けないレア作品である。

本公演は「ヴァイオリニスト郷古廉とピアニスト加藤洋之によるバルトーク作品の室内楽」という位置付けだが、そんなわけで、わたし的には申し訳ないけど『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』を鑑賞する千載一遇のコンサートなのであった。

だが、改めてプログラムを眺めてみて、その企画力に感心する。
郷古廉と加藤洋之を組ませてヴァイオリンとピアノのデュオリサイタルをやる、というのが普通だろう。でもそうではなく、二人を基軸に置きながらバルトークに焦点を当て、ヴァイオリン二重奏、ピアノと打楽器の室内楽というふうに展開させるプログラミング。絶妙だ。

郷古さんといえば、つい最近、N響のゲスト・アシスタント・コンサートマスター就任が発表されたばかり。そうなると、読響のコンサートマスターである長原さんとのデュオに、俄然関心が高まる。見た目も演奏スタイルも音色も異なる御両人だが、方向性が合致し、音が融合して、バルトークらしいエキゾチックさを醸し出す様は、さすがというか、実にお見事だ。
長原さんは、東京春祭オケのコンマスも務め、更に「トゥーランドット」公演の読響でもコンマスを務め、大活躍。もしかしたら、東京・春・音楽祭の「影の主役」の一人に挙げられるかもしれない。


期待の「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」は、大満足。演奏がどうというより、単純に作品が楽しい。
改めて思ったが、打楽器というのは視覚的効果が高い楽器だな。大小様々に並ぶ楽器を、奏者が分担して移動しながらパカポコ叩いていく様は、見ていて面白いし、なんだか夢中になる。

そういえば、私は2台のティンパニが活躍するニールセンの「不滅」も大好きだし、もしかして隠れ打楽器フェチなのだろうか??

2022/4/10 リカルダ・メルベート(東京・春・音楽祭)

2022年4月10日  東京・春・音楽祭 歌曲シリーズ
リカルダ・メルベート ソプラノリサイタル
フリードリヒ・ズッケル(ピアノ)
モーツァルト  魔笛より「愛の喜びは露と消え」
ワーグナー  ローエングリンより「エルザの夢」、さまよえるオランダ人より「ゼンタのバラード」、トリスタンとイゾルデより「イゾルデの愛の死」、神々の黄昏より「ブリュンヒルデの自己犠牲」
R・シュトラウス  エレクトラより「エレクトラのモノローグ」    他


一人のソプラノ歌手の歌声にビリビリと痺れながら、高揚感と幸福感に思い切り浸る。
この興奮は久しぶりだ。いったいいつ以来だろう?
フランチェスコ・メーリの感動から1年2か月。ソプラノだと・・・2018年10月、あのグルベローヴァ様以来、ということなのか・・・。何ということ!
再び感傷的な気分に陥る。


私が初めてメルベートを聴いたのは、2001年ウィーン。R・シュトラウスエレクトラ」公演で、クリソテミスの役だった。ちゃんと覚えている。声質は透き通り、あたかも蒸留水のようなスッキリとした味わいだった。
一方で、決して声量で圧するタイプではなかった。だってクリソテミスですからね。

それが、今ではエレクトラなのである。
ホールを制圧し、聴衆を金縛りにするほどのパワーを手に入れ、ドラマチック系を完全に確立させつつある。(今回の来日で、別の日には「トゥーランドット」も歌うのである。)
20年という歳月の中、まさに進化の変遷を目の当たりにしているようで、これはこれで感慨深い。

歌っている時の表情も本当に素敵。
エルザを歌っている時はエルザの顔になり、ゼンタの時はゼンタの顔になり、イゾルデ、エレクトラ、そしてブリュンヒルデ
それぞれの役で、燃える瞳で真っ直ぐを見据えている。リサイタルでありながら、歌とその瞳で私たちを惹きつけ、オペラの場面へと誘う。


残念だったのは、決してキャパが大きくないホールで空席が目立ったこと。
なぜ?
同時間帯に文化会館でマーラー3番の公演があったからか?
いやいや、交響曲よりもオペラが好きな愛好家いるでしょ? その人たちはどこで何してたの?

そんな人達に一言言わせていただく。
「諸君、残念なことをしたな、逃した魚は大きかったぞ」と。

新型コロナウィルスの影響10

まん延防止措置も解除され、日本への入国制限も緩和されたというのに、相変わらず外国人演奏家が出演する公演の中止やキャンセルが相次いでいる。
(コロナだけでなく、ウクライナ問題も影響していると思われるが)

東京・春・音楽祭ではD・ラーンキ、F・ルルーの公演が中止になったし、新国立劇場の「ばらの騎士」公演も、結局参加した外国人歌手はA・ダッシュのみ。
「もしかしたら、そろそろ大丈夫かも」と期待したパレルモ・マッシモ劇場引っ越し公演は再再延期の来年となり(しかも椿姫とボエームになっちまった・・もう絶対行かねぇ)、「これが実現したら完全復活」と期待したメトロポリタン・オペラ管弦楽団もあっけなく中止となった。

メトは来てほしかったなぁ・・・。
やっぱ、100人規模による来日公演は、まだまだ厳しいのか。
ちょうど同時期にケルン・ギュルツェニヒ管の来日も予定されているが、まあダメだろうね。

この秋には、ロンドン響、バイエルン放響、ボストン響の来日が計画されているが、期待せずに待つこととしよう。


合唱付きの公演では人数制限が果たされ、オペラにおいては出演者の立ち位置に間隔を取り、制約が多い。
また、会場では相変わらず、席のエリアごとの分散退場を採っているところが多いし、クロークも閉鎖、飲食カウンターもほとんどアウト。ブラヴォーの掛け声も当然禁止である。
分散退場なんて、いったいどれほどの感染予防の効果があるのか。途中休憩時にお客さんは一斉に席を立ってロビーやトイレに向かうが、これはお咎めなしで、終演後だけ咎めるって、それって何??

なんだか主催者側の「ちゃんと徹底してます」ポーズにしか見えん。これを「アホくさ」と言ったら、きっと怒られちゃうかもしれない。でも、怒られてもいいから言わせてもらう。
「アホくさ!」

海外(欧米)の映像を見ると、もはやマスクしている人なんか誰もいないし、サッカーなどの競技会場ではサポーターが正々堂々と大声で声援を送っている。
おそらく、クラシックやオペラの会場でも、きっと多くのブラヴォーが飛び交っているのだろう。

翻って、マスク着用率依然としてほぼ100%の日本。
スポーツ観戦でも声を出さず、手拍子だけの応援ルールに黙々と従う日本。

こんなことを言ったらまたまた怒られちゃうかもしれないが、怒られてもいいから言わせてもらう。
「いいのかよ、これで!?」

せめて検証してほしい。海外における緩和措置の影響と効果について。頼むから。

なんだか日本ではこのままずっと一生マスク生活を強いられるような気がする。どうやらコロナは死滅しない状況下、「皆さん、もうマスクしなくていいですよ」って、いったい誰が宣言するわけ? たぶんしないよ。誰も責任取りたくないからな。
そして、「いいのかよ、これで!?」という声を上げる人に対する世間の視線は、恐ろしいほど冷たい。
1億総ムラ社会が形成されている日本・・・。

ワールドカップの組合せ抽選結果

今年の11月から約1か月にわたって開催されるサッカーFIFAワールドカップカタール大会。そのグループリーグの組分け抽選会が先日行われ、日本の対戦相手が決まった。
なんと、優勝経験のある強豪、ドイツとスペインの同居である。

いやー、ひっくり返ったね。
そうきたか、と。これはすごいことになったな、と。

世界中の誰もが両強豪国の勝ち抜けを予想している。実際、それが順当だろう。「死の組だ!」と叫んでいる人もいるが、それはあくまでも日本側にとって。本当の死の組というのは、実力伯仲の強豪国が3つ以上ひしめき、その中のどこかが脱落する激戦グループのことを言う。日本は世界の中でお世辞にも強豪国と言えないわけだし、その意味においてこのグループは「無風区」なのである。残念なことに。

そういうわけなので、グループリーグ突破を願っている多くのファン、サポーターから絶望に近い悲鳴の雨あられかと思いきや、ネット民の声を拾ってみると、意外にも「楽しみ!」「最高!」という反応が多いことに気付き、「ほほう・・・」と感心する。
拙者もまったくの同意見。そうそう、こんなに面白いことはないではないか。

私が日本代表に望んでいるのは、ガチで当たって砕けろの挑戦である。ドン引きせず、正々堂々と体当りし、一瞬でも高慢な相手の鼻を挫いて一泡吹かせ、本気にさせて、激しい打ち合いを演じ、挙句の果てに力尽きる・・・。
具体的に言うと、前回ロシア大会の決勝トーナメント一回戦のベルギー戦。あの試合である。
あれは痺れた。そして、最高だった。

選手もファンも、一瞬ベスト8がチラついた。微かな希望が見えた次の瞬間、無惨に打ち砕かれた。強豪ベルギー(優勝候補の一つだった)に負け、悔し涙を滲ませる。「よくやった」「感動をありがとう」ではなく、「なんでだ!?」「チクショウ!」と嘆く。
この燃えるような悔しさが、いつか強豪に変貌させるパワーの源となるのだ。

今回、こういう痺れる試合が2つも用意された。最高じゃないか。
負けたっていい。そもそも優勝なんかできっこないチームだ。ブチ当たれ。華々しく舞い、激しく散ってしまえ。

だいいち、そもそも、負けるとは限らない。
前回ロシア大会で、ドイツはグループリーグ突破を賭けて韓国と対戦し、まさかの敗戦を喫してグループ最下位の憂き目に遭っている。ガチの戦いで、韓国はドイツに勝っているのだ。韓国に出来て、日本に出来ないことはない。
それから、競技は違うけど、2015年ラグビー・ワールドカップで、日本は南アフリカを下し、世紀のアップセットを演じて世界を驚愕させたのだ。

やってみなきゃ分からない。それこそがスポーツの醍醐味。
いや、楽しみだね。

2022/4/2 東京・春・音楽祭 ローエングリン

2022年4月2日  東京・春・音楽祭 ワーグナー・シリーズvol.13   東京文化会館
ワーグナー  ローエングリン(コンサート形式上演)
指揮  マレク・ヤノフスキ
管弦楽  NHK交響楽団
合唱  東京オペラシンガーズ
ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(ローエングリン)、ヨハンニ・フォン・オオストラム(エルザ)、エギリス・シリンス(テルラムント)、アンナ・マリア・キウリ(オルトルート)、タレク・ナズミ(ハインリッヒ)、リヴュー・ホレンダー(伝令)   他


東京・春・音楽祭にワーグナーが帰ってきた。

新国立劇場でも二期会でもワーグナーを聴くことは出来る。しかし、「本格的な」という部分で、少々の物足りなさがある。
ここで言う「本格的な」とは、要するに演奏の充実度、密度のことに他ならない。
聴き手の陶酔を誘う歌手の声の圧力。官能と陰影を漂わせるオーケストラの響き。作品を完全に手中に収め、グイグイと引っ張る指揮者の推進力。これらが完全一体に束ねられることが、すなわち充実度ということであり、本格的なワーグナー演奏の礎となる。

東京・春・音楽祭のワーグナー・シリーズで、「ニーベルングの指環」4部作演奏を完遂させたヤノフスキが、再び同シリーズに戻ってきてくれたのが、とにかく大きい。彼こそ、真のワーグナー芸術を体現化させることが出来る稀代の名匠である。
大胆かつ剛毅な演奏。洗練さを施すわけでもなく、叙情性を漂わせるわけでもなく、無骨で真っ直ぐな昔かたぎ職人の演奏だ。
こういう頑固な演奏を聴けるのは本当に貴重。残念だが、こういうタイプの指揮者は現代においてもうほとんど見られない。絶滅危惧種の指揮者、それがヤノフスキである。


N響の素晴らしさも絶賛しよう。響きの厚さ、そして音色の美しさ。
なんということであろう、彼らは、ワーグナーとは何たるか、どう演奏すべきか、分かっているのだ。
もちろん、ヤノフスキの強力な導きがあってこそ、であろう。
だがなんだか私は、彼らの中に、彼らのDNAに、ワーグナー演奏の系譜が刻まれているような気がしてならない。
サヴァリッシュ、スイトナー、H・シュタインなどと築き上げてきたドイツ系統の伝承。

おかしい。そんなはずはない。世代はとっくに入れ変わっているのだ・・・。
一体なぜ?
伝統という名の神秘、目に見えない摩訶不思議さよ。


歌手陣も充実。
特に、シリンスとナズミの堂々たる歌いっぷりが見事。瑞々しく澄んだオオストラムの声も美しい。

ヴォルフシュタイナーは、少々ムラがあったものの、別にケチをつけるほどでもない。
だいいち、「じゃあ他にローエングリンを誰が歌えるの?」って話。
K・F・V?
彼は唯一無二。そうやってないものねだりしてもしゃあねえだろ。


変更になってしまった当初予定のオルトルート、ツィトコーワ
戦争の影響だよね、これ。

プーチンが仕掛けた戦争は絶対に許せない。
でも、その影響によってロシア人が排斥されるのは、残念だし辛い。

2022/3/26 東京シティ・フィル

2022年3月26日   東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団   東京オペラシティコンサートホール
指揮  高関健
マーラー  交響曲第9番


高関さんがシティ・フィルの常任指揮者に就任して7年とのことであるが、350回という節目の定期演奏会を迎え、ついに金字塔とも言える演奏を成し遂げたのではないだろうか。コンサートのチラシには「集大成」という言葉が踊っていたが、まさしくそのとおりで、このコンビにおける最高潮というだけでなく、楽団史に刻まれるべき一期一会の決定的名演であったと思う。

もちろんそれは、集大成に相応しい作品を選択した必然の結果でもある。
マラ9は、クラシックのすべての作品の中でも、頂点に君臨する傑作だ。そこに挑むためには、指揮者もオーケストラ奏者も、入念な準備と100%のパフォーマンス発揮が必須となる。
で、指揮者とオーケストラ奏者の双方においてパーフェクトな取組が為されていたことは、一人ひとりの真剣な表情を見、滾々と湧き出る音を聴いて、すぐに分かった。

特に、オーケストラ奏者の皆さんの一音に賭ける執念が凄まじい。技術とか合奏能力とかを超越して、ひたすら音楽に集中する様は、驚嘆の一言であった。

美しかったかといえば、決してそうでもない。精緻であったかといえば、それほどでもない。ことさらに情感に支配されていたわけでもない。
そこにあったのは、渾身の集中力のみ。彼らは己の魂と覇気によってこの難曲を制し、作品に潜む諦念を剥き出しにしたのだ。

そんな彼らの演奏に聴衆は最大限の称賛の意を示した。カーテンコールは感動的だった。そして、奏者の皆さん一人ひとりの表情も達成感、充実感に満ち、幸せそうだった。