クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

1988/8/19 ザルツブルク

ザルツブルクに到着。さっそく市内へ繰り出そう。

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実はルツェルンもそうだったのだが、ここザルツでも、街中のいたる所に、音楽祭に出演する指揮者、ピアニスト、歌手などのポスターやパネルが掲げられていた。公演会場付近だけでなく、普通の何気ないお店のショーウィンドウケースの中にも。クラシック音楽のアーティストの写真が街を飾っているのである。

これらは音楽祭公演の告知ではない。
アーティストと契約するレコード会社(当時お馴染みだったグラモフォン、デッカ、EMI、CBSソニーなど)が、CDなどの販売戦略の一環として行う広告宣伝、プロモーション活動である。
だが、これによってフェスティバルの雰囲気が一層醸し出され、音楽祭がますます沸き立つという相乗効果が生まれていた。

音楽ファンとしては、一流演奏家たちがそこら中に溢れていて、散策が楽しくて仕方がないし、この旅行で収めたアルバムの中に、アーティストのポスターと一緒に記念撮影に興じる自分の写真が何枚も残されている。

残念なことに、近年、このような傾向はすっかり影を潜めてしまった。
今、音楽祭期間中にザルツブルクルツェルンを訪れても、こうしたポスターやパネルを目にすることは、まずない。
それはつまり、クラシックのみならず、レコード産業全体が完全なる低迷に陥っていることの如実の表れである。寂しい限りだ。


モーツァルト広場の一角に、チケット販売所があった。(音楽祭のオフィシャルショップではなかった。)
観光も重要だが、ザルツブルクに来たからには、音楽鑑賞はマスト。なんと言っても、今ここで音楽祭を絶賛開催中なのだから。

店内に入り、まずは今晩何をやっているかリサーチ。
祝祭小劇場(現在のハウス・ヒュア・モーツァルト)で、オーストリア放送交響楽団(現在のウィーン放送交響楽団)のコンサートが催されるという。
現代作曲家ルトスワフスキが作曲した作品を自ら指揮する自作自演コンサート。ソリストとして、世界的名手アンネ・ゾフィー・ムターとクリスティアン・ツィメルマンの二人が出演する。チケットは「ある」とのこと。

ルトスワフスキの作品ははっきり言って馴染みがないが、ソリストは豪華で素晴らしい。ムターとツェイメルマンの二人を一公演で聴けるなんて、かなり贅沢。さすがはザルツ。よし、それ聴こう!

チケットを購入。
以上で私としては用が済んだつもり。また観光を続行しようと思った。
ところが、Oくん、店内にあった音楽祭スケジュールカレンダーを眺め、とあるコンサートを目ざとく発見した。
なんと、天下のウィーン・フィル公演だ。
明日の午前11時開演。指揮者は、我らが小澤征爾

「ほら、明日、ウィーン・フィルのコンサートがあるよ!」
Oくん、色めき立って声を上げる。

私はというと、すぐに飛び付かない。
ウィーン・フィルのコンサートと言えば、ザルツブルク音楽祭の華、ハイライトの一つだ。こんな飛び込みで、あっさり簡単に入手できるわけがないでしょう。だから素っ気ない返事をした。
「いやー、どうせ売り切れなんじゃないの??」

「オレ、聞いてみる。」
再びチケットカウンターに向かったOくん、係の人と話をし、すぐにこっちを向いて言った。
「チケット、あるってよ!」

「え!? あるの!? ホントに!?」
ここでようやく、私も目の色が変わる。へえー、ウィーン・フィルのチケットって、売れ残っているものなんだ。

だが、演奏曲目を見て、ビビった。
オネゲルの作品だ。知らない曲。「ジャンヌ・ダルクうんたらかんたら」って書いてある。(※1) 全然わからん。
うーーむ・・。参った。

更に、明日の朝、予定ではすぐにザルツブルクを発ち、近郊の湖水地方ザルツカンマーグートをドライブするつもりであることも悩ましかった。午前11時開演のコンサートを鑑賞すると、計画がズレてしまう・・・。

しかし、気持ちは公演の方へとどんどんと傾いていく。
そりゃそうだわい。やっぱり「ザルツブルク音楽祭で、小澤征爾指揮のウィーン・フィルのコンサートを聴く」という魅力に抗うことなんて、どだい無理なんだよな。当時、このコンビによるコンサートは、まだ日本で実現していないし・・(※2)。
ならば、これは日本人にとって「ドリーム・コンサート」と言っても過言ではないだろう。

よし決めた。チケット買おう! オネゲル、聴いてみよう!

(※1:オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」。今だったら、滅多に聴けない大作、飛び上がって喜ぶけどね。ちなみにこの当時、私が知っていたオネゲル作品は「パシフィック231」たったの1曲のみだった。)
(※2:日本でこのコンビによるコンサートが、5年後に実現した。)

それにしても小澤征爾、この年の夏、ルツェルンではベルリン・フィルを振り、ザルツブルクではウィーン・フィルを振る・・・。
この一人の日本人の世界的な活躍、アメージングとしか言いようがない。

1988/8/19 ブレゲンツからザルツブルクへ

本日の行き先はザルツブルクブレゲンツから300キロを超えるドライブとなる。
考えられるルートは2通り。
インスブルックを経由するオーストリア国内ルート、もう一つはミュンヘンを経由するドイツルートだ。

どちらのルートがベターなのか分からなかったので、ホテルの人にアドバイスを求めてみた。
しかし、ホテルの人もよく分からなかったみたいで、答えは何だか要領を得ないものだった。
(尋ねたこちらの英語が拙くて、きちんと伝わらなかったという可能性もある。)

地図上では一見ミュンヘン経由の方が遠回りのように見えるが、インスブルック経由は山間の谷の道なので、もしかしたら時間がかかるかもしれない。景色はいいかもしれないけど。

二人で話し合った結果、ミュンヘン経由に決定。

車を快適に飛ばす、という意味で、このルートの選択は正解だったと思う。ドイツは速度無制限区域があるアウトバーンが整備され、アクセルを遠慮なくグイッと踏み込める、とても気持ちがいいドライブだった。
(それにしても、120キロくらいで走行していても、追い越し車線からそれ以上の物凄いスピード(150キロくらい出てる?)でビューッと抜き去っていくドイツの運転事情、ヤバ過ぎる。)

ミュンヘンに近づくにつれ、助手席に座っているOくんがソワソワしだしたのが分かった。
私はサッカー好きだが、彼もまた然り。中学時代はサッカー部だったし、幼少の頃から海外サッカー番組(オールドファンなら懐かしい「三菱ダイヤモンドサッカー」)で、独ブンデスリーガの試合をチェックしていたほどだった。
そんなサッカー好き人間にとって、名門バイエルン・ミュンヘンというチームを擁するミュンヘン市は、特別な感情を抱かせる憧れの都市なのである。

案の定、横で「ねぇー、ミュンヘンにちょっと寄れないかなあ・・。」と言い始めた。
んーー、その気持ちはわからないでもない。私だって時間に余裕があるのなら寄りたいさ。
でもねー、余裕がないんだな、残念ながら。
ザルツブルクの滞在はわずか一泊のみ。市内観光する時間は、実質今日しかないんだ。

ということで却下。許せ、Oくん。

ミュンヘンの外環道路に入ると、Oくんは「あぁぁ・・ミュンヘン~・・・」と呻きだす(笑)。
私は聞こえないふりをしてアクセルを踏み続け、市内に入らずにザルツブルク方面へとハンドルを切る。さようならミュンヘン。いつかきっと訪れる機会がありますように。
(まさかその後20回以上も訪れる慣れ親しんだ街になろうとはね。この時はまったく想像もしなかった。)


途中のドライブインで、休憩がてら、昼食の調達をするため、車を止めた。我々は今回のドライブ旅行中、移動時間と旅行資金の両方を上手に節約するため、昼はこのようにレストランに入らず、適当にパンやハンバーガーなどを買い、車内で済ますことが度々あった。

お店に入り、商品の棚に付いている値札を見て、「あっ!」と声を上げてしまった。

「やべぇ、ドイツ・マルクじゃん・・・」

我々はドイツ・マルクを所持していない・・。
そりゃそうだ、ドイツは旅行の計画にまったく入っていなかったんだからな。今、たまたま通過でドイツにいるだけだ。
で、カードも使えないとなると、我々はたかだかパン一個もありつけないということか!?
そりゃ悲しい・・・。

この頃、つまり欧州共通通貨ユーロが導入される以前、ヨーロッパ複数国をまたぐ旅行をする場合、各国ごとに両替する必要があるという、実に面倒くさい時代だった。

スイスはフラン、オーストリアはシリング、ドイツはマルク・・・。
更に、フランスはフランス・フラン、イタリアはリラ、オランダはギルダー・・・。

で、円をフランに、そのフランをマルクに、そのマルクをシリングに・・なんていう両替をやっていくと、その都度コミッション(手数料)を取られて、どんどんと貨幣価値がすり減っていく。

ユーロの導入は画期的だった。欧州域内の様々な障壁を撤廃させ、潤滑な経済活動を促進させる絶大な効果をもたらし、同時に、我々のような旅行者にも、「両替からの解放」という多大なる恩恵が与えられたのであった。

しかし、すべていい事づくしのはずだったそのユーロ圏が、今、ぐらぐらと揺らいでいるというのは、いったいどうしたことであろうか?
激動の世の中。世界はまさに一分一秒の単位で変移している。そして、その先に何が待っているのかは、誰も分からない・・・。


ドライブインでの話に戻そう。
私は店員に恐る恐る尋ねた。
「あのう・・スイス・フランかオーストリア・シリング、使えませんですかね??」

「どっちも大丈夫ですよ。」
え?? ホント??
あっそう、他国通貨、普通にそこらへんのお店で使えるんだ・・・。

いや、たまたまスイスやオーストリアに近いドイツの南部地域だったから使えたのかな。別の地域だったらそうはいかなかったのかもしれないな。

いずれにしても、ここでパンを買えたのは良かった。腹ごしらえが出来るし、ザルツブルクに到着したら、ただちに観光を始められる。

さっそくスイス・フラン紙幣で支払うと、なんと、お釣りのコインがドイツ・マルクで返ってきた(笑)。

まあ当たり前か。でも、いらねえ~。

1988/8/18 ブレゲンツ音楽祭

1988年8月18日  ブレゲンツ音楽祭    湖上特設会場
オッフェンバック  ホフマン物語
指揮  ヴォルフガング・ロット
演出  ジェローム・サヴァリー
管弦楽 ウィーン交響楽団
アレクサンドル・ジョニッツァ(ホフマン)、マルティナ・ボースト(ニクラウス)、ジェーン・ギールンク(オランピア)、マリエッテ・ケンマー(アントニア)、リンダ・ブレヒ(ジュリエッタ)、ヴィックス・スラッベルト(リンドルフ他3役)   他


初めての生鑑賞オペラは、最高だった。デビューは大成功。「めっちゃ面白え!」と思った。

人がオペラの魅力にハマる時、「歌手たちの美しい歌声にしびれたから」というオーソドックスパターンが一つあると思われる。
だが、この時、私が魅了されたのは歌声ではなく、大掛かりでスペクタクルな演出、そして、「野外」「湖上」というフェスティバル独特の雰囲気だった。

まあな、別にそれでもいいじゃんか。そういうことがきっかけでオペラにハマるというのも、絶対に「あり」。これも立派なオペラの魅力の一つだ。
ボーデン湖の水景色は日が暮れ暗くなると見えなくなるが、その代わりに湖の向こう側の街並みの灯りがうっすらと輝き、ステージ上の照明との対比を成す。この雰囲気は最高だ。

歌手の声は、やむを得ないことだが、マイクによる拡声措置が取られている。さすがにそうしないと、野外ステージは厳しいに違いない。それでも、「いかにもスピーカーから電子増幅音が鳴っている」という感じではなく、非常にナチュラルで違和感がない。

酒場の場面では、酔っぱらい客を演じたパフォーマーたちが次々に湖に飛び込んで水しぶきをあげ、観客を沸かせた。
オランピアの場面では、巨大人形がライトに照らされながら登場し、目を釘付けにした。
ジュリエッタの場面では、本物のゴンドラが湖上を行き交い、ヴェネチアらしい雰囲気を作り上げた。
フィナーレでは、オッフェンバック肖像画が登場し、その後ろで花火が華々しく打ち上げられた。
たくさんのエキストラやパフォーマーが登場し、バレエやダンスが盛り込まれ、まさにスペクタクル・ショーだった。

一方で、頭の中をクエスチョン・マーク「?」がグルグル巡ることもあった。
このオペラのストーリーを知らなかったがゆえに、シチューエーションを理解出来ず、「何なの?これ」になってしまったのだ。

先に紹介したオランピアの巨大人形なんかは、まさに「何なの?これ」だったわけだが、それよりももっと意味不明で混乱したことがあった。

主人公ホフマン役が登場し、いかにも主役らしく歌と演技を行っていたが、やがてその人は椅子に座わったかと思ったら、手足を放り出し、眠りこけてしまったのだ。ドラマの展開は別の場所へと移行され、その間、その人はステージから退出もせず、演奏中、ただずっと居眠りをし続けていた。

何にも知らない私は、呆気にとられた。

「あれ~?? 何やってるの、この人。何で寝てるわけ? 主役じゃなかったの?? 何がどうなってんだよ・・。」

そんなことを考えながら観ていたら、その人は最後の方になって、突然目が覚めてムクッと起き出し、また歌と演技を再開し始めたのだ。これには本当に驚いたし、意味不明だった。

実はこの謎、このオペラに慣れ親しんでいるか、あるいは事前にちゃんと予習していたら、簡単に解けるものである。
もうお分かりであろう。若き日のホフマンと、年をとった現在のホフマンという二つの異なる時期の設定に、それぞれ別の歌手が充てられた、ということだ。
で、若き日のホフマンは、夢の中で回想される、というわけね。
だから、今現在のホフマン役は途中で居眠りを始め、目が覚めると、また普通に戻るのである。

オペラはやっぱり予習が重要だよなー。


この公演で、もう一つ驚いたことがある。
ピットで演奏していたウィーン交響楽団が予想以上に上手いオーケストラだったということだ。

ウィーン響を聴いたのは、これが初めて。それまで、まことに失礼だが、ウィーン・フィルの後塵を拝し、しかも大きく水を開けられた普通のオケだと思っていた。
にもかかわらず「ウィーン」というブランドを利用し、実力以上に商業価値を上げようとしているんじゃないか。そこまで勘ぐっていた。

聴いてもいなかったのに、本当にすまん。

この日の演奏を聴いて思ったのは、ウィーン響の真の実力を実感したというより、ウィーンの底力に恐れ入った、ということだった。たとえ二番手であっても、こんなに上手い。さすがは音楽の都というわけだ。

以下は、公演プログラムの掲載写真。おそらく加工が施されている写真だと思うが、野外フェスの雰囲気は感じられる。

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1988/8/18 ブレゲンツ

我々は次の目的地、ブレゲンツへと車を走らせた。ボーデン湖のほとり、スイスやドイツとの国境に近いオーストリア西端の街。

今回の旅行でこの街を滞在地の一つに決めたということは、それはもう100%、ブレゲンツ音楽祭が念頭にあって、湖上オペラを鑑賞しよう、ということだ。

だというのに、私は上演される演目「ホフマン物語」がどんな物語で、どんな音楽なのか、まったく知らなかった。

何の演目をやっているのかという情報が事前入手出来なかったのだろうか?
いや違う。雑誌か何かからの情報で、「ホフマン物語」というオペラが上演されることは知っていた。それなのに、作品の中身を知らないまま公演に臨んだのだ。

要するに、当時はまだオペラは、所詮その程度の関心しかなかった、ということに尽きる。

おそらく、「野外フェスティバル、湖上ステージで上演されるオペラ」という「催し」自体に興味を持った、ということなんだろうな。たぶん。

何を隠そう、私は、ちょうどこの頃からオペラをCDやLDで聴き始めるようになったばかり。
つまり、超が付く初心者だった。
なので、それまでオペラの実演を生鑑賞したことがなかった。(※国内オケによるコンサート形式上演は聴いたことがあった。)

ということは・・・。
このブレゲンツ音楽祭の「ホフマン物語」こそ、生まれて初めての本格オペラ上演生鑑賞、記念すべき1回目なのであった!
おめでとう! パチパチパチ。


さて、その「ホフマン物語」公演の内容のことは次回にして、訪れたブレゲンツの街を紹介しよう。

湖畔リゾート、ブレゲンツ。この街の魅力を語るに、ボーデン湖観光は欠かせない。
湖畔の散策や遊覧船観光もいいだろう。我々はというと、ボートを借りた。
このボート、手漕ぎ式でも足漕ぎ式でもなく、モーターだったのだ。しかも、免許を持った専門の人が運転するのではなく、普通に自分たちで運転できるというのである。
日本人に馴染みのモーターボートよりもずっと小型で、エンジンの出力は抑えられており、スピードはあまり出ない。
それでも、一般観光客が運転できるモーターボートがあり、それを貸し出している、ということに単純に「すげー!」と思った。なぜなら、いろいろと規制が厳しい日本では考えられない物だったからだ。

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湖上音楽祭会場。
日中の間はこのように見学することが出来、客席に入って、そこから湖上ステージを見渡すことが出来る。

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標高1064メートルの展望台、プフェンダー。ロープウェイで登る。
ここは湖と街を見下ろせるスポットだが、この時は西日が眩しく、逆光になってしまったため、絶景写真を一枚も撮れなかったのが残念。

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1988/8/17 ルツェルン音楽祭

1988年8月17日  スイス祝祭管弦楽団ルツェルン音楽祭)  クンストホール
指揮  ウラディーミル・アシュケナージ
マレイ・ペライア(ピアノ)
ハイドン  交響曲第88番
シューマン  ピアノ協奏曲
ラヴェル  組曲マ・メール・ロワ
ストラヴィンスキー  組曲火の鳥


伝統のルツェルン音楽祭が、この日開幕した。トスカニーニが尽力したとされる音楽祭の創設は1938年。なので、たまたまではあったが、50周年という記念すべきイヤーであった。

この日が開幕日だということは、旅行前に知っていた。多分、音楽雑誌か何かから情報を得たのだろう。だから、きちんとそれを目指してルツェルンにやって来たわけだ。

一方で、チケットの予約はしなかったし、それどころか、何の公演なのか、どんなプログラムなのかさえも、事前に全く知らなかった。前日にルツェルン入りし、音楽祭事務局兼チケットオフィスに出向いて公演概要を確認し、そしてチケットを購入した次第だ。
(記憶が定かではないが、ホテルのチェックイン時間までの間に、車を路上に放置して出かけたのは、もしかしたらこの用事だったのかもしれない・・・。)

スイス祝祭管弦楽団は、現在のルツェルン祝祭管弦楽団の前身である。
また、指揮のアシュケナージは、この年の前年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任するなど、既に指揮者として幅広く活躍し始めていた。

しかし、本公演の概要を知った時、率直に思った。
アシュケナージが指揮かよ・・・」

なんともビミョーである。
なぜかと言うと、その時まだ私の中では、この人は「ピアニスト」だった。「指揮はいいから、ピアノ弾けよ」ってなもんである。

私がアシュケナージを指揮者として初めて認めたのは、クリーヴランド管弦楽団と録音した「英雄の生涯」のCDだ。素晴らしい演奏だと思ったし、「これはピアニストの単なる余興じゃないぞ」とも思った。
このCDが発売され、入手して聴いたのは、我々が聴いたルツェルン音楽祭公演のずっと後のことだが、実際にこの録音を行ったのは、音楽祭公演のたった1か月前の7月だったというのだから、なんだか皮肉でおかしい話だ。

肝心の本公演の感想についてだが、さすがに30年以上も前ということで、ほとんど記憶に残っていない。(ステージの残像は頭の中にあるのだが)
もしかしたら素晴らしい演奏だったのかもしれないが、いかんせん指揮者に対して「ピアノ弾けよ」なんて気持ちを抱いている時点でアウト。感動が膨れ上がることはない。
なぜなら、感動というのは、期待の高揚度に比例するからだ。


ちなみに、毎年豪華なオーケストラがゲスト出演するルツェルン音楽祭。
今、この年の音楽祭プログラム冊子を取り出してきて、久しぶりにパラパラとめくってみた。
世界の二大オーケストラ、ベルリン・フィルウィーン・フィルの両巨塔が、揃って音楽祭に客演だ。
ベルリン・フィル公演では、二人の指揮者が担っていて、一人はカラヤン、もう一人は小澤征爾。そして、ウィーン・フィル公演の指揮者はバーンスタイン・・・。

いやー、ため息が出ちゃいますな。

1988/8/17 ルツェルン2

ルツェルン二日目。
この日、私の方からOくんに「それぞれ別行動にしよう」と提案した。

もしかしたら、ここまでずっと一緒の行動で、少し遠慮や窮屈といったものが生じているかもしれない。Oくんは決して口に出さないが、もし彼にそうした気持ちが内心に芽生えているとしたら、それは残念なことだ。
それに、旅行期間中、それぞれが勝手気ままに行動するお楽しみの日というのも、一日くらいあってもいい。

更にもう一つ。
私には個人的にやらなければいけないことがあって、何かというと、買い物だった。
親からおみやげを買ってくるように頼まれていて、結構なお小遣い金をもらった。私はそのお金を足しにして、スイスの代表的名産品である腕時計を買い、親へプレゼントしようと思っていた。
こうした個人的な買い物にOくんを付き合わせるのも、なんかイヤだなと思った。

そういうことで、Oくんと別れ、私がまず向かったのが、市内の時計店だ。
親へのプレゼントの時計は、さっさと見つけ、さっさと購入を決めた。どうせ人にあげちゃう物なのだから、あまり迷う必要はない。予算に合致する商品を見つければ、それでいいのである。

買い物はそれで終わりにするはずだった。だが、店内の展示品、きらめくような、まるで宝石のような時計の数々を眺めているうちに、私はどんどんと目が眩んでいく。これはヤバい。

「ううっ、オレっちも欲しいよう・・・・」

高級なオートマチック製はさすがに高嶺の花だが、OMEGAやLONGINESなどのクオーツなら、自分の手に届きそうな商品がある。
「これ、いいなあ」と思って、とある商品を眺めていたら、それを察した店員がショーケースからさっと取り出し、私の腕に巻いて、囁いた。
「Elegant !!」
「Just fit for you!!」

私は陥落した。見事にあっけなく。8万円くらいのオメガの腕時計をカードで衝動買いしてしまった。

スイス製時計の中では決して高い品ではないかもしれないが、社会人二年目の安月給からすれば、これでもかなり頑張ったと言える。十分だ。日頃、辛い仕事に耐えて一生懸命頑張っているのだから、これくらい自分にご褒美をあげたっていい。

買ったばかりのピカピカの時計をさっそく装着し、ウキウキ気分になって、ルツェルン観光を開始。

フィアヴァルトシュテッテル湖の遊覧船に乗り、湖畔に何か所かある船着き場の一つアルプナッハシュタットで下船。そこからピラトゥス山登山電車に乗った。ここは、世界一の急勾配の登山電車として有名だ。

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山頂からの眺望を楽しんだら、今度はロープウェイを使って、反対側に降りる。
私と同乗したのは、お父さんお母さんお子さんの3人のスイス人ご家族。
4歳くらいのお嬢ちゃんが、目の前にいる見慣れないアジア人の私を警戒し、じっとしかめっ面をしているのが分かった。そんな娘さんをリラックスさせようと、パパが‘いないいないばぁ’で変顔を作って笑わせようとしていた。

私は、そのパパと一緒になって変顔を作り、「お嬢ちゃんを笑わせよう」大作戦に加わった。
女の子がみるみるうちに笑顔になり、一気に和んで、私はあっという間にご家族の仲間になった。

ロープウェイを下りた後、仲良しになれたお父さんが私に言った。
「これからどの方面に行くのですか? 市内に戻るのですか? もしよければ、車で送りましょうか?」
好意に甘え、旧市街の中心部まで送ってもらった。
「じゃあね、バイバイ!」と笑顔で挨拶をしてくれた女の子のかわいい表情は、30年経った今でも思い出すことができる。

その後、もう一か所だけ観光して(近郊のトリプシェンにあるリヒャルト・ワーグナー記念館)、ホテルに戻ると、部屋にいたOくんに腕時計をさっそく見せびらかした。

Oくん、「マジかよ~ やられたぜ~!!」と声を上げ、天井を仰ぐ。

私は知らなかったのだが、Oくんには腕時計収集の趣味があって、いくつも持っているのだそうだ。
そんなOくんにしてみれば、自分を差し置いて相棒がスイス製時計を買った、というのが、とにかく心穏やかでない。
ましてや、そんな自分に対して時計を見せびらかし、自慢するなど、言語道断(笑)。ケンカ売ってるのかオヌシ、みたいな。

相当悔しかったみたいで、負けず嫌いの彼は、この後、旅行の最後の最後にリベンジを果たすことになる・・・。(この件については、最後に触れることとしよう。)

1988/8/16 ルツェルン1

あっという間にグリンデルワルトを離れることとなったこの日の朝。
ホテルをチェックアウトし、我々はレンタカーオフィスを訪ねた。既に日本から代理店を通じて予約を入れてある。

レンタル期間は一週間。返却場所はウィーン国際空港。
ここからは電車ではなく、二人で交代で運転しながら最終目的地へと移動していく。初めてのヨーロッパで、我々は大胆にもドライブ旅行を選択したのであった。
理由はいたってシンプル。車の旅には、電車の出発時間などに縛られない自由と、どこにでも行ける機動力があるからだ。この魅力は捨てがたい。

ところが、いざ運転してみると、結構大変。
慣れない左ハンドル、右側通行、それにウィンカーとワイパーも日本製と逆。いつもの癖でウィンカーを出すと、人を小馬鹿にしたようにワイパーが「プワー」と作動。
慎重に運転している時はいいが、ちょっとでも油断したり、あるいは急な車線変更で慌てウィンカーを出せば、その瞬間、プワー、プワー・・。
くそー、む・か・つ・く。

この日の目的地はルツェルン。それほど遠くない。
ベルナーオーバーラントを離れる前に、もう一つアルプスの展望台シルトホルンに登ることにした。車で、まずグリンデルワルトと反対側の谷間の村、ラウターブルンネンへ。

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その先にあるシュテッヘルベルクからロープウェイを乗り継いで、シルトホルン山頂へ。

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360度見渡せる展望台なので、そこに回転レストランがある。

名残を惜しむようにアルプスを眺めたら、下山し、ルツェルンへ出発だ。


海外での車の旅では、人に道を躊躇なく尋ねる度胸というのがとっても大事。
現代のようなカーナビゲーションは存在しない。
それどころか、我々は詳細なロードマップさえも持っていない。
頼れる物は4つ。
持参したガイドブックと、道路にある案内標識、自らの勘、そして人から教えてもらう情報、である。

そろそろ市の中心部に入ってきたかなあ、と思ったら、車を止め、通行人に声をかけ、ガイドブックを開き、掲載されている市街地のエリアマップを見せ、そして尋ねる。

「すみませーん、今、我々は、どこらへんですか??」
「あー、えーと・・・今ね、我々はね、だいたいここらへんですよ」
指で示されたのは、冊子の思い切り外側・・。エアーを指してやがる。
ぜんぜん中心部にたどり着いてねえじゃん(笑)。

こんなやりとりを繰り返しながら、ようやくなんとかホテルに到着する。
このパターンが最終日まで続いた。


ルツェルンのホテルでは、残念ながらまだチェックインの時間になっていなかった。
仕方なく、我々はぶらりと出かけることにした。
車をホテルの目の前の路上に駐車して・・・。

戻ってくると、車のフロントガラスに、何やら紙が貼り付けてあった。
も、もしかして、これは・・・。
駐車違反切符!!!  あっちゃー、やられた~!!

車の旅の初日にいきなり違反かよ。 トホホ、泣けてくる。
すぐにホテルの受付の女性に「どうしましょ?」と相談したら、「あらまー、駐車許可証があったのに・・・」だってよ。
バカタレ、早く言えっての。

その人のアドバイスに従い、我々は警察署に行くことになった。場所もちゃんと教わった。
それにしても、なかなか無ぇよな、観光旅行で警察に出頭するなんてな。はっはっは。
(笑いごとじゃねえだろ)

警察の担当官は優しかった。優しかったが、決して許してはくれない。
その場で罰金を払い、我々は無事に解放された。
その際、担当官から、しきりに何かを聞かれた。はっきりと覚えていないが、確かクリンクだかクランクだか、そんな単語をしきりに言っていた気がする。
全然意味がわからず、二人してポカーンとしていたら、ダメだこりゃと諦められ、サヨナラとなった。
今、思うに、あれは「タイヤロックされてないですか?」と聞かれていたのではなかろうか。なんとなくそんなような気がする。

いずれにしても、我々はお勉強をしたってわけだ。罰金は、高い授業料。さあ、気を取り直そう。再び市内観光にお出かけだ。

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夜、食事をし終わってホテルに戻る道中、湖畔に花火が打ち上がるのを目撃し、しばし見入った。
明日から、有名な国際フェスティバル、ルツェルン音楽祭が開幕する。
夜空を彩る光景を眺めながら、この花火は前夜祭としての祝砲なのかなー、多分そうなんだろうなー、と思った。