クラシック、オペラの粋を極める!

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2018/10/13 新国立 魔笛

2018年10月13日   新国立劇場
指揮  ローラント・ベーア
演出  ウィリアム・ケントリッジ
サヴァ・ヴェミッチ(ザラストロ)、スティーヴ・ダヴィスリム(タミーノ)、林正子(パミーナ)、安井陽子(夜の女王)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、アンドレ・シュエン(パパゲーノ)、升島唯博(モノスタス)   他
 
 
舞台と映像のコラボレーション効果というものについて、実は、私はほとんど期待をしていない。
いかにも何かクリエーティブな物が出来上がりそうだし、そうした宣伝を打って好奇心を煽ったりするが、これまで「これはすごい!!」という舞台に出会ったことがない。
「所詮は舞台に映像を写すだけのことじゃん」と、なんとも白けた感想を吐く結果となる。
 
これはつまり、「空間」という三次元の世界と、「映像」という二次元の世界の交錯、融合は困難であり、相乗創出効果に限界があるということなのだ。
 
ファンタジックな映像が映し出されている時、その時はきれいだとか面白いだとか見える。
が、映像が終わって、そこにただの何もない簡素な舞台装置が現れた瞬間、見えていた物は単なる投射にすぎなかったことを否が応でも自覚し、気分が萎む。
また、公演というのは「生」であり、歌も動きもその場で瞬間的に発生するものだが、映像は過去において作っておいた物であり、その再生であって、時限的な乖離は埋めることが出来ない。結局、「当てはめ」なのだ。
 
映画やテレビと舞台は根本的に違うということをただ再認識した、というのがオチ。
 
ケントリッジの演出家としての探求には敬意を表する。
彼は、映像を作り、それを舞台装置に当てるという作業だけで満足していない。魔笛という作品になにが潜んでいるかを考えている。考えたことで見えてきたテーマのイメージ化には成功していると思う。
例えば、光と闇の世界の存在、作曲された時代の社会情勢(植民地化や自然破壊の功罪)、根底にあるフリーメーソン思想の影響などについて、きちんとシンボライズしている。それは、演出家として責務を果たしていると言える。
 
でもそれを映像=イメージにしたところで、やっぱりイメージというのはあくまでも副次的なのだ。残念ながら。
ということで、結論。「映像は難しい。」
 
歌手たちは、皆、一定の水準を確保していた。特に日本人の方々は、外国人キャストとまったく遜色がなく、またアンサンブルも整って、モーツァルトの音楽の中で躍動していたと思う。
 
指揮者のベーアも、「ああ、要するにこういうことをやりたいわけですね」ということがよく分かった、非常に素直でストレートな音楽作りだった。作品の素朴な一面が垣間見えて、微笑ましかった。