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2016/8/5 トリスタンとイゾルデ

2016年8月5日 バイロイト音楽祭
演出  カタリーナ・ワーグナー
ステファン・グールド(トリスタン)、ぺトラ・ラング(イゾルデ)、イアン・パターソン(クルヴェナール)、クラウディア・マーンケ(ブランゲーネ)、ゲオルグ・ツェッペンフェルト(マルケ王)、ライムンド・ノルテ(メロート)   他
 
 
開演時間を知らせるブザーが鳴り、会場の扉がバタンバタンと音を立てて閉められた。続いて、カチャカチャと場内係員が鍵を閉める音。
まるで「これでもう、あなたはここから逃げることは出来ません」と告げているかのよう。あたかも青ひげ公の館に招き入れられたようなミステリアスな感覚・・・。
 
暗闇のピットの中から聞こえてくる前奏曲。地底から沸き立つような音。
ああ、そう、これ。この音。思い出した、これがバイロイトの音。世界でオンリー・ワン、ここでしか聞けないバイロイト独特の響き。この神秘のサウンドを再び聴くために、私は6年待ち、そしてはるばるやってきたのだ。
 
たとえピットの中が見えなくても、私にはティーレマンの指揮姿が目に浮かぶ。音が教えてくれるから。彼が何をしているのか、何を目指しているのか、すべては音のとおりだからだ。
 
そのティーレマンが導き出す音楽であるが、前回に鑑賞した指環とは印象が若干異なった。
 
リングでは、圧倒的な包容力で壮大なドラマを構築させている、といった感じだった。
これに対し、今回のトリスタンは、ちょっとくすんだグレー、墨汁のような音色で、どことなく寂寥感を漂わせている。
「なるほど、彼はこういう音を作ることも出来るのか・・・」
新たな発見。しかし考えてみればこれは運命によって決して成就することがない二人の禁断の愛の物語。それを考慮すれば合点がいくし、むしろ相応しいと感じる。
 
もちろん、作品の解釈に関する揺るぎない自信は今回もはっきりと主張していて、頼もしさ抜群だ。
 
演出はワーグナーの曾孫にして音楽祭の総裁K・ワーグナー
初めて演出したマイスタージンガーは、その現代的革新的なアプローチで、それこそちゃぶ台をひっくり返したような大騒動に発展した。
おそらく彼女は、まさにその「ひっくり返し」こそが目的だったのだと思う。
長年に渡って君臨した父ヴォルフガングへのアンチテーゼ。そして、まとわりつくかのように堅苦しい伝統へのアンチテーゼ。
バイロイトでの演出二作品目の今回のトリスタン。一体どうなることやらとヒヤヒヤ心配したが、マイスターに比べればかなり穏当と言えるのではないだろうか。
 
ただし、彼女なりの反骨は、やっぱり見て取れる。
媚薬を飲まずとも最初から愛し合っている二人。夜の闇へと逃避するのではなく、監視の対象となってる二人。死を自ら受け入れるのではなく、後ろから一方的にメロートにナイフで切り付けられるトリスタン。そして、トリスタンと一緒に死に向かうことを拒まれ、引き裂かれてマルケ王に連れられていくイゾルデ。
 
これらは、すべて既存のストーリー展開を「あえて」「わざと」踏み躙るものだ。カテリーナの目的が、既存の固定観念の打破であることは間違いないのである。
こうした試みは、保守的伝統を愛する聴衆からは容赦なく否定されるのだが、昨今の「なんでもアリ」的な理解不能ハチャメチャ演出に比べれば、一本筋が通っている分、私には十分に受入れが可能であった。
 
歌手では、もちろん主役の二人は申し分がないが、それ以上に圧倒的な存在感を示したのが、マルケ王のツェッペンフェルト。ドイツ系のバスとしてはルネ・パーペと並んで世界のトップ級。うまい、とにかくうまい。
 
トリスタンのグールドは、彼の実力の程を十分に示し、イゾルデのラングは、とっても一生懸命頑張っているという熱意が伝わってきた。
 
だが、それにしても、カーテンコールでの歌手たちに対する観客の熱狂はちょっと尋常ではない。盛大なブラヴォーと、床を足で踏み鳴らす音。まるで「希代の名唱」に出会ったかのよう。
 
ちょっと過剰、大げさ。
バイロイトのお客さん、歌手には少々甘い感じがするな・・・。
 
私の拍手は、指揮者、それから「なんでこんなに上手いの??」と舌を巻くほどアンビリーバブルなオーケストラに捧げることとしよう。
 
もちろん、作品を産み出し、奇跡の劇場を建設し、音楽祭を創設した偉大なるワーグナー様に対しても。