指揮 デニス・ラッセル・デイヴィス
演出 宮本亜門
モーツァルトの作品は、確かに素晴らしい。彼が天才であることに何の異論もない。ベートーヴェンと並んで最も人気がある作曲家であることについても、「そうでしょうねー」と思う。誰が言ったかは忘れてしまったが、誰か有名な人が「死とは、モーツァルトを聴けなくなることである」という格言を残したらしい。「なるほどねー」と思う。
だが、私にとって、モーツァルトは少々厄介だ。素晴らしい音楽だと認めつつ、何度も聴き続けていると、「飽き」が来てしまうのだ。交響曲も協奏曲も、そしてオペラも。モーツァルトをこよなく愛している方からは絶句されてしまうかもしれないけど、でも実際そうなのだからどうしようもない。
私は恐れる。「モーツァルトは飽きた。もういい。」と感じてしまうことを。それは悲劇だ。
だから私は細心の注意を払っている。たくさん聴き過ぎないようにしているのだ。自室のリスニングルームでモーツァルトを聴くことはほとんどない。聴く時は、それはすなわちコンサートやオペラに出かける時である。そのコンサートやオペラについても、なるべく厳選している。
ということでフィガロ。実に5年ぶりだ。いや久しぶり~。
亜門さんのフィガロも、プレミエの2002年に観て以来久しぶり。その時の感想として、「とにかくよく動くなあ」と思った。当時、日本でこれだけ細かい演技を施されたプロダクションはそうはなく、宮本亜門、若いが、さすが「違いの分かる男、ゴールドブレンド」だと思った(笑)。
最近は高度な演技を求められる演劇的要素の高いプロダクションを見る機会が多いので、今回改めて見て、プレミエ時のような衝撃は受けなかったが、それでも相変わらず登場人物が皆活き活きと動いているのを見ると、「これぞモーツァルトだな」とうれしくなった。
これに対し、指揮者デニス・ラッセル・デイヴィスの音楽は、テンポが遅くてやや鈍重だ。だが、テンポが遅いなら遅いなりに、これまで気付かなかった旋律や音を発見できるのが、これまたモーツァルトの素晴らしさであり、奥深さでもある。
多くのファンや評論家が指摘しているとおり、第2幕の「コーダ」と言われる最後の10数分の音楽は、もう魔法としか言いようがない。天才の煌きに、ただただ呆気にとられる。
二期会が、ここ数年こういう演劇的な演出に果敢に取り組んでいることを私は非常に高く評価している。是非この路線をこれからも続けていって欲しいと思う。