指揮 リッカルド・ムーティ
演出 ジャン・ピエール・ポネル
イルデブランド・ダルカンジェロ(アルマヴィーヴァ伯爵)、エレオノーラ・プラット(伯爵夫人)、ローザ・フェオーラ(スザンナ)、アレッサンドロ・ルオンゴ(フィガロ)、マルガリータ・グリシュコヴァ(ケルビーノ)、マーガレット・プラマー(マルチェリーナ)、カルロ・レポーレ(バルトロ) 他
神奈川県民ホールは、三階席の上の方であっても舞台がそれほど遠くなく、しかもオケピットが隠れることなくよく見える、とてもありがたいホール。
視界良好の私の視線の先にあるのは、当然のことながらピット内にいる一人の統率者だ。
新味に乏しい伝統的演出。既に見慣れた舞台装置。ここで今さら「舞台で何が起きるのか」を注視するその必要は無い。
近年、オペラを振る機会が限定的になりつつあるリッカルド・ムーティ。そんな彼が振ることで、オーソドックスな舞台がいかに覚醒するのか。聴き慣れた感のある有名作品がいかに蘇るのか。
俄然注目すべき点はそこ。私の関心は、むしろそれしかない。
今回の公演は、つまりそういうことなのだ。
終始エレガントなタクトを見つめながら、思った。
「ムーティ、円熟しているなあ・・・」
かつてのような鮮烈さ、鋭さは影を潜め、音楽が丸くなっている。優美になっている。
決して圧倒的な掌握力で引っ張ろうとしない。カリスマの求心力で音楽の渦を巻き起こそうとしない。(かつてはそうだった。)
だというのに、音楽が自然と一つの方向に導かれている。自然と、だ。
このナチュラルな推進力の源はいったい何なのだろう。
作曲家に対する長年の探求の結果、おそらくマエストロは解ってしまった。
「モーツァルトの音楽とは、こういうものなのだ」と。
今回の公演のためにどれだけ歌手に稽古を果たし、リハーサルを積んだのか、私は知らない。
だが、マエストロのタクトの下で演奏すれば、仮にぶっつけ本番だったとしても、この日のような演奏が成し遂げられたのではなかろうか。そう思わずにはいられない。
仏様の掌の中でクルクルと回っている演奏者たち。歌手もオケも、みんなこの指揮者と一緒に音楽出来ることに喜びを感じていることが、手に取るように分かる。だって歌手なんか、客席の方に向かって歌っていないのだから。(貫禄のダルカンジェロだけは、客席に向かっていたな(笑)。)
これぞ円熟したムーティの為せる業。
若獅子、皇帝などと言われ、称えられてきた英雄は、ここへきていよいよ伝説の指揮者と肩を並べるようになった。やがてはそれを越え、神の領域に近づいていく。